退引の未出現あるいは未出現の退引
ぼくが生まれていなかったとき,世界は見棄てられていた.ぼくが死んでしまうとき,世界は見棄てられてしまうだろう.そしてぼくが生きているとき,世界は見棄てられている. — ル・クレジオ『物質的恍惚』
まだ生まれてもいない,自分の誕生する数年前の誕生日というのは奇妙なものだ.そこには存在の痕跡があって,まるで時間が逆に流れているかのように,「かつて自分が存在したらしい」という静かな気配が見知らぬ路上に沈み込んでいる.
誕生日は,誕生以後においてのみ機能する.かろうじて記憶に残存する幼少時の風景,もしくはそれらを撮影した写真や映像による事後的な記憶が,まだ生まれてもいない,しかし生まれる日に近接した時間=場所についての印象を染み透るように捏造しているのだろうか.けれどもその印象のなかにおいて,私は「いまだ」存在しないのではなく,「もはや」存在しないのである.
〈私〉のいまだない時間へと浸潤してゆく生──それが「もはや」存在しないという気配の痕跡あるいは痕跡の気配であるならば,むしろ死に近いといえるだろう.「ぼくはこの海,青色の太洋の上にいる,まるで崩れ落ちようとしている小島のように」(ル・クレジオ).生まれる前も死後においても等しくシンメトリカルに不在である私の存在は,〈私〉という生の現在を起点とした遠近法においてのみ,雨上がりのような死後の沈黙を,痕跡なき痕跡を,等しく過去へも投射する.始まってすらいないものがすでに完了して見えるように.それは,生死にかかわらず毎年ただ粛々と訪れるほかない誕生日を唯一の根拠とし,〈私〉の未出現の場所に,涯しない夜のうちに,ひとつの「退引」を跡形なく見出すのである.
私の死後の世界は,私の誕生前の世界に似ている.〈私〉が存在しないという一点において.死後の世界において〈私〉はもはや存在せず,それはいまだない.誕生前の世界において〈私〉はいまだ存在せず,それはもはやない.〈私〉の「(死=)退引」の未出現は,「振り返る」ことを通じて,際限のない「(退引=)未出現」の退引以後の世界として,「もはや」現在生きられてしまってもいる.
ところで,世界はもはや誰かの死後の世界であり,いまだ誰かの誕生前の世界である.
