ある存在に
お前は幾時でもやって来て,何処へでも行くだろう. — ランボオ,飾画 『ある理性に』
──足跡だけを残して.
ところで,誰かの理性の足跡は,暗闇を流動する真っ黒な血液の淀みにちろちろと浮かぶ仄明るい灰色の翳としてわれわれに感得されるし,理性を遺失した他者をなお信じねばならぬ情況において,それは唯一残された希望のよすがともなり得るが,数日前まで理性を宿していたであろう当人にとっての足跡とは,畢竟ベンジン臭の行き渡った天国の長閑な昼下がり,雲の隙間に煌めく星を不意と視界に入れるごとき精神の一作用でしかなく,やがては一点の濁りなき精神に支えられた《完璧なる理性》がさながらその人物に宿っているように思われてならないといった事態がこともなげに生起し,われわれに戦慄を齎すことがあるのではないだろうか.選択項を持たないがゆえに彼女に迷いはなく,実際突き抜ける碧空のごとく明晰であり,剰え理性は撤退しその足跡のみを留めているというわけである.かかる事態が精神分析学の教えるところの《行為への移行》と如何ほどの距離を取り得るかについては明らかでない.とはいえ待ち合わせ場所に向かうため一時間ばかり電車に揺られているあいだ,彼女は正にそのようにして怪物であったのではあるまいか.七月一六日の昏黒が近づく頃,その日初めて会うこととなった本名も知らぬ友人が漕ぐ自転車の後部に跨って彼女は買い出しに出掛ける.この友人は二人乗りの経験がなかったものか,車体は初めこそ平衡を失い二人は一度ならず足をついたものの,彼の下宿から三分程の距離にある小さな商店街に差し掛かったときには最早何の問題もなく進めるようになっていた.人間は学習するのだ.
もう何年もこんな生活を送っているかのように初夏の風は馬鹿馬鹿しくも彼女の黒髪を靡かせた.街路灯と商店の灯りは道の遥か向こうで左右を切り取られた山の峰を縁取りながら燃え盛る断末魔の夕焼けに滲みつつ沈み込んでおり,天を覆う紫がかった暗蒼色の空はくすみながら静かに地上へと垂れ込めて,道路,不法駐輪された自転車,行き交う人々を飲み込んでゆく.既に至るところで冥闇が湧き出していた.欠伸をすると線路の遮断機の音が遠くから聞えてきて,而してほんの僅かだけ懐かしい匂いがした.ペダルを漕ぐ二〇歳の青年はアパートを出るときに,アルコールは必要かもしれないなと独り言のように呟いたきり言葉を発しない.戻ればまたお喋りするのだろうと思い,彼女はプロコフィエフの『ピーターと狼』を鼻で歌いながら青年のベルトに手を添えて,あの人のことを想った.三時間後,彼ら二人は肉片と化しJR職員により五つのバケツと黒いポリ袋三枚に収められ,未消化の睡眠導入剤三〇〇錠とともに唯物的に混淆することとなった.彼女(と青年)の実存の足跡は翌日の同じ時刻には焼却され,跡形もなく消え失せた.世界に穿たれた穴は空虚を露呈させるまでもなく,またすぐに別の無関係な存在物によって充たされた.神は偉大である.
