Sep 11
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何もない






 たとえば,ある人が亡くなると同時に世界中を走査し,まさに「その瞬間から」どこかの国で静かに稼働しはじめた防犯カメラの稼働情報を自動で割り出すことにより,特定の人間の死とどこかに設置された特定の防犯カメラの稼働とをただ「その瞬間」という偶然において結びつけようとするソフトウェアにとっての欲望の内実とは,いったい何だろうか.
 仮に「宇宙の外部には何もない」のだとして,いやそうではなく「宇宙の外部」自体がないんだよと君が言ったとき,そう言ったときにだけ立ち現れる「宇宙の外部」という君の空疎な観念が,「宇宙の外部には何もない」ことと実は等しかったのだとしたら,宇宙の外部とはいったい何だろうか.
 プログラムされた欲望ほど純粋で苛烈な情動があるのだろうか.「何もない」とは,宇宙の外部の果てしない出来事の横溢ではないだろうか.あるいは空疎な観念とは,血液の流れを止めるために用意された濃密な夜の闇ではないだろうか.そして「何もない」はどこにでもあり,どこにもないままわれわれを巻き込み,未知の感覚の領野へと駆り立て,宇宙の外部へと手を振らせてやまないのではないだろうか.「何もない」は不可能性ではなく,それが告知しているもののせいですでにひとつの現存であり,やがてあらゆる物質がまったく空々しいままに流れ去ったとき,大地を走査するその姿がはっきりと認められるのではないだろうか.そしてそれは静かに働きかけるのではないだろうか.記憶のなかの風のように.

 夜のホームで電車に乗った君を見送るため手を振っているのに,いつまでたっても発車しないのでお互い窓越しに顔をしかめながら手を振り続けていたところ,とつぜん車内の電灯が消え,通りがかった駅員に無人ですよと言われてしまう.しかたなく手を振りながら帰宅した.こうして現在もまだ片方の手が震えている.
Aug 02
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退引の未出現あるいは未出現の退引





ぼくが生まれていなかったとき,世界は見棄てられていた.ぼくが死んでしまうとき,世界は見棄てられてしまうだろう.そしてぼくが生きているとき,世界は見棄てられている. — ル・クレジオ『物質的恍惚』



 まだ生まれてもいない,自分の誕生する数年前の誕生日というのは奇妙なものだ.そこには存在の痕跡があって,まるで時間が逆に流れているかのように,「かつて自分が存在したらしい」という静かな気配が見知らぬ路上に沈み込んでいる.
 誕生日は,誕生以後においてのみ機能する.かろうじて記憶に残存する幼少時の風景,もしくはそれらを撮影した写真や映像による事後的な記憶が,まだ生まれてもいない,しかし生まれる日に近接した時間=場所についての印象を染み透るように捏造しているのだろうか.けれどもその印象のなかにおいて,私は「いまだ」存在しないのではなく,「もはや」存在しないのである.
 〈私〉のいまだない時間へと浸潤してゆく生──それが「もはや」存在しないという気配の痕跡あるいは痕跡の気配であるならば,むしろ死に近いといえるだろう.「ぼくはこの海,青色の太洋の上にいる,まるで崩れ落ちようとしている小島のように」(ル・クレジオ).生まれる前も死後においても等しくシンメトリカルに不在である私の存在は,〈私〉という生の現在を起点とした遠近法においてのみ,雨上がりのような死後の沈黙を,痕跡なき痕跡を,等しく過去へも投射する.始まってすらいないものがすでに完了して見えるように.それは,生死にかかわらず毎年ただ粛々と訪れるほかない誕生日を唯一の根拠とし,〈私〉の未出現の場所に,涯しない夜のうちに,ひとつの「退引」を跡形なく見出すのである.
 私の死後の世界は,私の誕生前の世界に似ている.〈私〉が存在しないという一点において.死後の世界において〈私〉はもはや存在せず,それはいまだない.誕生前の世界において〈私〉はいまだ存在せず,それはもはやない.〈私〉の「(死=)退引」の未出現は,「振り返る」ことを通じて,際限のない「(退引=)未出現」の退引以後の世界として,「もはや」現在生きられてしまってもいる.

 ところで,世界はもはや誰かの死後の世界であり,いまだ誰かの誕生前の世界である.
Jul 19
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〈喪〉の可能性について





死に向き合うにはふたつの方法があり得る.ひとつは可能なことが不可能になることとして.もうひとつは不可能なことが可能になることとして.しかし〈私〉とはひとりの他者のことなのだ. — エマニュエル・レヴィナス/アルチュール・ランボー(ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』)



 広瀬大志の詩集『髑髏譜』に「死数」と題された一節がある.包囲され,ついには鬼たちの群れに襲われてしまった哀れな彼女に,「私」は恐る恐る声をかける.「死んでるのか?」.彼女は応える,「それ以上よ」.「私」は数に変わっていく.「もしもここが最後の数というのなら,一体どちらが死の側か」.



 たとえば,かつてとても幸福な時代があったとして,それはもう二度と訪れないし終わってしまったということを,それを共に過ごした人と語り合い,「この人」が目の前にいてもなお「あの人」は圧倒的に失われてしまっているのだなというとき,大いなる喪失感とともに「あれは何だったのだろう」と感じる.

 ところが,その目の前で会話する相手がこの世からいなくなり,世界からその肉体が消失してしまうと,そのときまでに至る,その人のタグが付され関連づけされたあらゆる失われた事柄が,リロードする度にその人へと統合され,その人が喪われたという事態へと時間を貫通してあまねく集約されることになる.

 すると,あらゆる失われた事柄が,「あれは」ではなく「あの人は何だったのだろう」という形式の喪失感として,現在において一斉に失われてしまう.つまりその人が目の前にいてもなお失われていたはずだったものが再度,しかも一挙に,別の形で失われ直される.それは集約されることで各々を強化し合う.

 「集約的再喪失」において,人は同じ人を二度失う,つまり失われた人を失うことがありうる.しかも多層的な霧のような記憶の伸縮に応じて,現前の消失という決定的な喪失の後もなお何度でも失われ続けうる.けれども事態は相反する層と折り重なっているようにも思われる.つまりそれはもはや失われない.

 喪うことによって,ようやく失われないものを保有することができる.デリダが追悼文において述べたように,それは一つの「世界の終焉」(『そのたびごとにただ一つ,世界の終焉』)だ.それは自らの死を保持することと重なる.いやむしろ「自らを,死に負っている」(『留まれ,アテネ』)ことと重なる.

 一月前,彼女は何十年経っても二十七歳のままなのだという話をしてきたが,厳密であるかどうかは別として,つまり自らの終焉を勘定に入れるかどうかは別として,それは「永遠に」凍結したのであり,失われたのではなく,一つの回帰なのである.喪失の喪失として,もはや失うことすらできないものとして.


わたしが驚く──ほとんど心配に(不安に)なる──のは,じつはこれは喪失ではないということだ(わたしの生活は混乱していないのだから,これを喪失のように語ることはできない).そうではなく,「傷」なのだ. — ロラン・バルト『喪の日記』

廃用化されたものへの愛着,それを保有しつつ失ってしまった何かを,自らのうちに留める喪. — ジャック・デリダ『留まれ,アテネ』




 だがこれは他者性の消尽なのではない.死は死でありながらそれ以上の〈出来事〉でありつつ,けっして把捉することのできない時間のなかで彼女の孤独は滞留し続ける.一方,私の周囲には私以外の生ける者との関係性があり.必ずしも孤独な情況においてなのではない.にもかかわらず,〈私〉は孤独である.

 亡くなった人を知る者たちが集まり故人の話をし合うのは,いまやそのあいだに滞留する空気の層としてしか故人が存在しているとは思われないからだろう.ここにこうして書き,読まれることもまた同じことだ.にもかかわらず,私の知る彼女は,私以外の者には知りえないのであり,私だけのものなのである.

 そして私だけのものだからこそ,「あの人は何だったのだろう」という問いが解消されることはないばかりか,それは曇った鏡のような問いを,すなわち「〈私〉は何だった/何であるのだろう」という問いを随伴せずにはおかない.〈私〉は自らの孤独につねに遅れており,私の孤独はつねに彼女に遅れている.

 自分が自分であること,自分が自分でしかないこと,孤独の源泉たる自らの終焉を抱えつつ,彼女=他者の差異性を測り続けること.それらがともに重なり合い,特異性のもとに混じり合い,負われてゆく.「喪の仕事」.しかし,はたしてそんなことが可能なのか.それはどこまで苛烈で,どこまで静謐なのか.


われわれに起こることにふさわしい者になること,したがって,われわれに起こることからできごとを望み,引き出し,それ自身のできごとの子となり,それによって再生し,生まれ変わり,肉から生まれた身と絶縁することである.(…)
こうしたひとは,日常を平凡に暮らすひととどれほど異なっているであろうか.それは,非人称的,前個人的な特異性のひとであり,が降るようにが死ぬ il meurt comme il pleut 純粋なできごとのひとである.ひとの輝き,それはできごとそのものもしくは第四人称の輝きである.私的なできごとも,集団的なできごともないのはこのためである.個人的なものも普遍的なものもなく,特殊性も一般性もない.すべてが特異であり,したがって同時に集団的で私的であり,特殊であり一般的であるが,個人的ではなく,普遍的でもない.私的な事件でないような戦争はなく,逆に戦争によらず,社会全体を原因としないような傷はない.私的なできごとにはあらゆる座標がある.つまり,社会的・非人称的なあらゆる特異性がある. — ジル・ドゥルーズ,第二十一のセリー できごとについて『意味の論理学』




 イマージュは貧弱であり,空虚であるほどに豊穣でもある.喪失において見たことのないものなど何一つなく,すべては新しい.人はいつも他人よりも先に死んでしまうし,死ぬのはいつも他人ばかりだ.天国はある,そしてない.死んでいるという形で生きており,あまりにも狭い墓地の上で,自由を恢復する.

 「そして」,〈私〉とはひとりの他者のことなのだ.個別的な死と一般的な死が,一体化して層をなしている.──雨が降るように彼女が死ぬ,とブランショ=ドゥルーズはいう.ある者は,それだけのことだ,と訳知り顔でつけ加える.それだけのことに過ぎないのではなく,それほどまでのことに他ならない.

 「失ってしまった何かを,自らのうちに留める」ことは,失われるものとして何かを自らのうちに留めることでもある.私はいずれ失われる,しかし〈私〉は自分の死を死ぬことができない.それは失われるのではなく「一つの回帰」なのである.「喪失の喪失として,もはや失うことすらできないものとして」.


われわれの救いは死である,しかし〈この〉死ではない. — フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』

死とは現在を欠いた時間であり,私はこの現在を欠いた時間に何の関わりも持っていない.私には死に向かって身を投じることはできない.なぜなら,死においては,〈私〉が死ぬのではなく,〈私〉は死ぬ能力を失っているからだ.すなわち,死においては,〈ひと〉が死ぬのであり,〈ひと〉が死に続けるのである. — モーリス・ブランショ『文学空間』




 雨が降るように〈ひと〉が死に,〈喪〉が開始する.それはいつのまにか始まっているが完了する保証はどこにもない.七年前のブランショ追悼に際し,廣瀬純は「ブランショにおける〈死〉の肯定は,ドゥルーズにおける〈生〉の肯定へとリレーされる」(『ブランショの死とドゥルーズの生』)と書いている.

 〈死〉や非人称的な〈ひと〉とは,私が把捉することのできない〈他なるもの〉であり,〈死〉の瞬間において〈私〉は,そして〈彼女〉は雲散霧消する.もはや誰でもあり,誰でもない沈黙のざわめき渡る中性的な領域は,混沌とした内在における「一つの生」という生命の存在様態にまで繋がってゆくだろう.

 ブランショの引く「誰の死でもない死を私にくれ!」というリルケの言葉は,〈出来事〉という表層における爆発の煌めきとして受け継がれ,やがては深層=身体の別の在り方にまで波及することになる際限なき切断として〈他なるもの〉へと開かれながら,来たるべき人間の〈創造的進化〉を準備するのである.

 たとえドゥルーズのいう〈生〉がわれわれの知っている「生」とは何の関係もないものだとしても,たとえバルトが悲嘆しつつ喪は断続的で変化がないと書きつけたとしても,非人称的な〈ひと〉が〈私〉へと浸潤する生成変化の「途上」,死者とのあいだの「リトルネロ」には,〈喪〉の可能性が広がっている.

 存在するのと同時に過ぎ去っている〈現在〉と,死という捉えがたい〈出来事〉との「あいだ」にリトルネロ(リフレイン)はある.鳥の歌,暗闇のなかで子供が口遊む歌,動物たちのテリトリーの表現,混沌の外部へと開かれるために創設される領土──この領土こそ,私が〈喪〉を開始する場所=時間である.

 それはすでに始まっている.いとけない歌であると同時に「耳はリトルネロの形をしている」(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』).集約される潜在的な〈過去〉の尖端において,つねに新しい〈未来〉へと押し出される〈現在〉は引き裂かれながら〈出来事〉の諸力を巻き込み,領土を拓きつつ開いてゆく.


出来事はわれわれに到来する.(…)死のこのような接近は,われわれが,絶対的に他なるものであるような何かと係わっていることを示しているのだが,ここにいう何かは,享受によってわれわれが引き受けうるような一過的な規定としての他者性を有しているのではなく,この何かの存在そのものが他者性からなっているのである.だから,私の孤独は死によって確証されるのではなく,死によって破られるのだ.
すぐに言っておくが,それゆえに存在は多元的なのである.この場合,複数形は存在者の多様性のうちにはなく,存在することそれ自体のうちに現れる.これまでは,存在者の存在することは独りの主体によって排他的に引き受けられ,苦しみによってあらわにされていたのだが,そのような存在することそれ自体のうちに,多元性が挿入される.死のうちで,存在者の存在することは他なるものに譲渡される. — エマニュエル・レヴィナス『時間と他なるもの』




 非人称的な「存在すること」との融即状態から抜け出し,存在することとの「この」隔たりにおいて定位することによって,〈私〉は〈現在〉を不断に担いとり,存在することを「所有」する.それは同時に所有されることでもある.だが,〈私〉が存在することをどうしても所有できないような契機が存在する.

 不在によって世界が苦悩を纏うのではない.「世界の終焉」において,なお〈私〉とは無関係なものとして世界が在り続け,「たったいま死んだものによって残される空所が,志願者の呟きによって充たされる」(『存在するとは別の仕方で』).手にした林檎からは意味が剥落し,それは異邦性の内に没し去る.

 喪失という不在にかわって「存在の厄災」(レヴィナス)が,非人称的な〈ある〉(il y a)のざわめきが辺りを充たすなか,「心臓の恐ろしさ」(夏目漱石)に否応なく曝される身体に倦みながら,なおも死者と共に逃走線を引くことが可能であるとすれば,それはエクリチュールの営みにおいてである.


死が私において書くことによって初めて,すなわち,死が私を空虚な点にすることによって初めて,あるいは,非人称的なものが顕現することによって初めて,私は書くことができるようになる. — フランツ・カフカ(モーリス・ブランショ『文学空間』,「可能的な死」)

書くことがそれ自体で目的をもたないのは,まさに生が個人的なものではないからだ.あるいはむしろエクリチュールの目的とは,生を非人称的な力能の状態へ到らせることにある. — ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『対話』

わたしが必要としているのは孤独ではなく,(仕事の)匿名性である.
わたしは,分析的な意味での「仕事」(「喪の作業」や「夢の作用」というときの「仕事」)を現実の──書く行為という──「仕事」に変えてゆくのだ.
なぜなら
(愛や喪といった)大きな危機から脱するための(と言われる)「仕事」は,性急に解決されてはならないからだ.わたしにとっては,そのような「仕事」は,書く行為のなかで,書く行為によってしか,「なしとげ」られないのである. — ロラン・バルト『喪の日記』




 ハイデガーにおいて「死」とは,各々の「現存在」に固有の「本来性」をもたらす最大の可能性であり,「不可能なことが可能になることとして」の死であった.だが,〈私〉の死と〈ひと〉の死が一体化して層をなし,〈私〉において〈ひと〉が〈書く〉のである以上,死は「不可能性の可能性」なのではない.

 そうではなく,〈私〉の不可能性,「可能なことが不可能になることとして」の死なのである.「死という言葉を否定なしに読むこと」(リルケ).生と死は峻別できないものとしてどこまでも融解し,〈私〉は「生きながら死んでいる」という可塑的な状態への「途上」において,〈書く〉ことに身を置かれる.


死の接近に際して重要なのは,ある瞬間に,われわれにとって「もはや何かをなしうるということが可能ではなくなる」,という点である.まさにそこにおいて,主体はまさに主体としてのその支配を喪失する.(…)死,それは企図をもつことの不可能性である. — エマニュエル・レヴィナス『時間と他なるもの』

言語とは主体のない一種の意識であり,存在から隔てられた分離状態であり,異議申し立てであり,空虚さを創造し,欠如のなかに身を置く無限の力である. — モーリス・ブランショ『完本 焔の文学』




 「存在すること」という否定的な非人称性は,〈他なるもの〉と重ねられることによって,言語を介して「不在が存在すること」のもとで〈書く〉ことの力の場をなしている,そこではレヴィナスのいう主体化の運動のなかで所有されることも,その融即状態から抜け出すことで非人称性が解消されることもない.

 言葉によって事物は不在=死を孕み,そのことによって言葉は生き延びる.「死に耐え,死の中に自らを支える生」(ヘーゲル).あの人の痕跡が,消え去りゆく運動においてのみ現れることのできる痕跡の痕跡として,不在の不在として,不在への異議申し立てとして,あの人の死の〈死〉として「回帰」する.

 〈書く〉ことによって再び現前する不在.誰でもないあの人固有の眼差しなき目が,滞留し続ける瞬間において遠いものの近さで語る沈黙の言葉,その反復する差異に耳を澄ませることがそのまま歌うことでもあり,それを内へと閉じることが別の仕方で開くことでもある.〈死〉が〈生〉へと接続されるように.

 〈喪〉とは単純で,混沌とした,特殊で,一般的な,そのどちらでもない何か/誰かとの関係性のことである.それは何も言っていないに等しい.だがそのなかで創造的に〈書く〉こと.『アワーミュージック』で闘争の果てに死ぬオルガの向かった想像的な〈天国〉,そこでゴダールはある関係性を描いていた.


それは/何かの/イメージだ/ぼんやりしてる/二人が横に並んでる/私の横に女性がいる/見知らぬ女性だ/自分は分かる/だが私には覚えがない  — オルガ・ブロスキー(ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』)

Mar 05
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フレームの外





 自分の片眼を取りだして映写機の先端につけると映画が始まる.

 主人公は長年探している言葉をベッドの下から見つけるが,明日を出ていくわといわれて悲嘆する.彼はその言葉を永遠に失うだろう.「君がいまも動いて見えるのは,僕が一秒間に二十四回まばたきしているから」.

 映画が終わり,眼球を元に戻そうとすると少しだけ大きくて眼孔に入らない.その後も入りきることはなかったので,窓辺に飾っておくことにした.

Jun 27
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死体アップロード






 「Fの死体作品はそもそも死体であることを否定するという身振り──すなわち死の死という,美術作品としてはありふれた同語反復的な構造を持ち込み,死体を基本構造である外部対象を指示する(特定の死を指し示す)機能を喪失させ,あげく死体に骨董同様のテクスチャーを与え物質化するという,ポーズ(身振り)によって,評価され,美術作品として認められてきたのでした.すなわち『Fの死体は死体であることをやめて(時間を停止して)骨董品同様の自立した一つのオブジェとなった』,というのが美術業界のおおかたの評価の論調です.
 つまりは死体を否定する死体というのは,そもそもFが仕組んだ骨董屋的トリックだったわけです.こうした安易なトリックにひっかかる美術業界もたしかに問題ですが,その値段が高いなどという世俗的な事柄に憤慨し,大まじめで批判することは,かえってFの死体によってではなく,たんに死体そのものを成立させていたはずの固有のロジックの喪失を物語るだけになってしまうのではないでしょうか.
 Fの使う同語反復的な構造は,たしかにいまやデジタルデータ化した死体の基本的性質になってしまったからです.そしてデジタルデータはけっして骨董化しない.オブジェになりはしない.かっての死体もすべて複製されデジタルデータによってアーカイブ化されるようになりつつある現在それはたしかです.反対に死体のデジタル化は,従来のアナログとしての死体を,おしなべて,たんにアナログという物質的特性によって,骨董的な価値に変えてしまった.現在死体博物館と呼ばれる機関が収集しているものはすべて,こうした死体である.死体はもはや骨董になったというのはこういう意味でしょう.Fにかかわらず,ゆえにそれは高い値段がつく.
 反対に死体がなお情報として(何か固有の出来事を刻み込んだ)価値ある現前たろうとすれば,ネット上を無料に伝播,複製されつづけていく宿命を甘んじて受け入れるほかない.信憑性はそのことによって確保されるほかないのではないか.かって死体のみのもつ特権だった『特定の死の刻印』という属性──信頼性をなお確保しようとするならば,それはこうしてデータが変換され電送される,その瞬間の時間の刻印(たとえばタイムスタンプと呼ばれるもの)によってのみ,かろうじて確保されるようなものになってしまったからです.それでも,なお死体が,かって特権的に保持していたステータス──特定の死の唯一の刻印を保持しようとすれば,亡くなった瞬間に(たとえば携帯電話で),すぐさま他の場所に電送され複製されなければならない,そういう段階に来ているようにも思えます」(ある美術批評家)
Sep 15
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世界に絶望する者は己を過信している.己に絶望する者は永遠を過信している.そして永遠に絶望する者はいかなるものも信じることはない.
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あらゆるポートレイトは遺影の皮膚である.
Sep 14
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チェシャ猫によるところのロマン主義的自殺志願者






 ロマン主義における自滅願望とは,その手前に位置する享楽や安定と「情熱的な自己」とを短絡させることによって死を抑圧せんとする「振舞いの加速度」を充用することで,まさにその弁明として仮構された幻影=物語なのではないか.死の抑圧には我を忘れるに足る相応の加速度が必要であり,しかし,それは死への漸近という自らの生を転覆せしめ狂気へと駆り立てるだけの差し迫った情況でなければ手に入ることはない.皮肉にも死を振り切るためには死に突き進まねばならないのである.
 自滅という物語の終結へと自らの意志で赴く「情熱的な自己」は世界の中心に定位するのであり,周縁における逃亡や抑圧や排除のうちにあるのではないという弁明は,だがその威勢よくはためく袖の端を少しばかり翻してみれば,よくよく見知った操作を露出させるかもしれない.すなわち「死の措定による生の確保」,と言えば「生きたいから死にたい」と呟く自殺志願者であろう.
 「プロレタリア:『死に耐え,死の中に自らを支える生』」(ヘーゲル)に耐えられない生としてのロマン主義,換言すれば,「生に耐え,生の中に自らを支える死」,これである.
 事態はその深刻さゆえに皮肉じみて見えるのである.まるでキャロルの『不思議の国のアリス』に登場する言葉遊びのような可笑しみを湛えて.
Sep 13
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回文






たった一つ,名は「カフカ」と書くは痛く,あの名は腐る.「虫とザムザ,むざむざと染むる咲花の悪態吐くか」と,カフカは夏と浸った.
Sep 11
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音響






部屋に流していた音楽が気づかぬうちに終わってしまっていて,なのにあたかも音楽が鳴っているかのような意識の姿勢のままに雨上がりの濡れた地面を聴いていた〈私〉が不意に主題化されたときの,あの取り残されたような感覚,その無音の感覚の下方を気にも留めずに流れ充たす空気清浄機の作動音のように慎ましく包括的でいて哀しみに綾取られた,世界とは無縁な世界の音,何もかもが去ってしまったあとにそれでもなお残ってしまう無時間の音を欲望していると,枕の擦れる音が馬の嘶きに.
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世界の襞.あるいは存在そのものの沈黙から生起するなにごとか.
Aug 06
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ある存在に





お前は幾時でもやって来て,何処へでも行くだろう. — ランボオ,飾画 『ある理性に』



──足跡だけを残して. 

 ところで,誰かの理性の足跡は,暗闇を流動する真っ黒な血液の淀みにちろちろと浮かぶ仄明るい灰色の翳としてわれわれに感得されるし,理性を遺失した他者をなお信じねばならぬ情況において,それは唯一残された希望のよすがともなり得るが,数日前まで理性を宿していたであろう当人にとっての足跡とは,畢竟ベンジン臭の行き渡った天国の長閑な昼下がり,雲の隙間に煌めく星を不意と視界に入れるごとき精神の一作用でしかなく,やがては一点の濁りなき精神に支えられた《完璧なる理性》がさながらその人物に宿っているように思われてならないといった事態がこともなげに生起し,われわれに戦慄を齎すことがあるのではないだろうか.選択項を持たないがゆえに彼女に迷いはなく,実際突き抜ける碧空のごとく明晰であり,剰え理性は撤退しその足跡のみを留めているというわけである.かかる事態が精神分析学の教えるところの《行為への移行》と如何ほどの距離を取り得るかについては明らかでない.とはいえ待ち合わせ場所に向かうため一時間ばかり電車に揺られているあいだ,彼女は正にそのようにして怪物であったのではあるまいか.七月一六日の昏黒が近づく頃,その日初めて会うこととなった本名も知らぬ友人が漕ぐ自転車の後部に跨って彼女は買い出しに出掛ける.この友人は二人乗りの経験がなかったものか,車体は初めこそ平衡を失い二人は一度ならず足をついたものの,彼の下宿から三分程の距離にある小さな商店街に差し掛かったときには最早何の問題もなく進めるようになっていた.人間は学習するのだ.

 もう何年もこんな生活を送っているかのように初夏の風は馬鹿馬鹿しくも彼女の黒髪を靡かせた.街路灯と商店の灯りは道の遥か向こうで左右を切り取られた山の峰を縁取りながら燃え盛る断末魔の夕焼けに滲みつつ沈み込んでおり,天を覆う紫がかった暗蒼色の空はくすみながら静かに地上へと垂れ込めて,道路,不法駐輪された自転車,行き交う人々を飲み込んでゆく.既に至るところで冥闇が湧き出していた.欠伸をすると線路の遮断機の音が遠くから聞えてきて,而してほんの僅かだけ懐かしい匂いがした.ペダルを漕ぐ二〇歳の青年はアパートを出るときに,アルコールは必要かもしれないなと独り言のように呟いたきり言葉を発しない.戻ればまたお喋りするのだろうと思い,彼女はプロコフィエフの『ピーターと狼』を鼻で歌いながら青年のベルトに手を添えて,あの人のことを想った.三時間後,彼ら二人は肉片と化しJR職員により五つのバケツと黒いポリ袋三枚に収められ,未消化の睡眠導入剤三〇〇錠とともに唯物的に混淆することとなった.彼女(と青年)の実存の足跡は翌日の同じ時刻には焼却され,跡形もなく消え失せた.世界に穿たれた穴は空虚を露呈させるまでもなく,またすぐに別の無関係な存在物によって充たされた.神は偉大である.