Jun 27

死体アップロード

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「Fの死体作品はそもそも死体であることを否定するという身振り───すなわち死の死という,美術作品としてはありふれた同語反復的な構造を持ち込み,死体を基本構造である外部対象を指示する(特定の死を指し示す)機能を喪失させ,あげく死体に骨董同様のテクスチャーを与え物質化するという,ポーズ(身振り)によって,評価され,美術作品として認められてきたのでした.すなわち『Fの死体は死体であることをやめて(時間を停止して)骨董品同様の自立した一つのオブジェとなった』,というのが美術業界のおおかたの評価の論調です.
 つまりは死体を否定する死体というのは,そもそもFが仕組んだ骨董屋的トリックだったわけです.こうした安易なトリックにひっかかる美術業界もたしかに問題ですが,その値段が高いなどという世俗的な事柄に憤慨し,大まじめで批判することは,かえってFの死体によってではなく,たんに死体そのものを成立させていたはずの固有のロジックの喪失を物語るだけになってしまうのではないでしょうか.
 Fの使う同語反復的な構造は,たしかにいまやデジタルデータ化した死体の基本的性質になってしまったからです.そしてデジタルデータはけっして骨董化しない.オブジェになりはしない.かっての死体もすべて複製されデジタルデータによってアーカイブ化されるようになりつつある現在それはたしかです.反対に死体のデジタル化は,従来のアナログとしての死体を,おしなべて,たんにアナログという物質的特性によって,骨董的な価値に変えてしまった.現在死体博物館と呼ばれる機関が収集しているものはすべて,こうした死体である.死体はもはや骨董になったというのはこういう意味でしょう.Fにかかわらず,ゆえにそれは高い値段がつく.
 反対に死体がなお情報として(何か固有の出来事を刻み込んだ)価値あるイメージたろうとすれば,ネット上を無料に伝播,複製されつづけていく宿命を甘んじて受け入れるほかない.信憑性はそのことによって確保されるほかないのではないか.かって死体のみのもつ特権だった『特定の死の刻印』という属性───信頼性をなお確保しようとするならば,それはこうしてデータが変換され電送される,その瞬間の時間の刻印(たとえばタイムスタンプと呼ばれるもの)によってのみ,かろうじて確保されるようなものになってしまったからです.それでも,なお死体が,かって特権的に保持していたステータス───特定の死の唯一の刻印を保持しようとすれば,亡くなった瞬間に(たとえば携帯電話で),すぐさま他の場所に電送され複製されなければならない,そういう段階に来ているようにも思えます」(ある美術評論家)
Sep 14
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世界に絶望する者は己を過信している.己に絶望する者は永遠を過信している.そして永遠に絶望する者はいかなるものも信じることはない.
Sep 13

チェシャ猫によるところのロマン主義的自殺志願者

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 ロマン主義における自滅願望とは,その手前に位置する享楽や安定と「情熱的な自己」とを短絡させることによって死を抑圧せんとする「振舞いの加速度」を充用することで,まさにその弁明として仮構された幻影=物語なのではないか.死の抑圧には我を忘れるに足る相応の加速度が必要なのであり,しかし,それは死への漸近という自らの生を転覆せしめ狂気へと駆り立てるだけの差し迫った情況でなければ手に入ることはない.皮肉にも死を振り切るためには死に突き進まねばならないのである.
 自滅という物語の終結へと自らの意志で赴く「情熱的な自己」は世界の中心に定位するのであり,周縁における逃亡や抑圧や排除のうちにあるのではないという弁明は,だがその威勢よくはためく袖の端を少しばかり翻してみれば,よくよく見知った操作を露出させるかもしれない.すなわち「死の措定による生の確保」,と言えば「生きたいから死にたい」と呟く自殺志願者であろう.
 「プロレタリア: 『死に耐え,死の中に自らを支える生』」(ヘーゲル)に耐えられない生としてのロマン主義,換言すれば,「生に耐え,生の中に自らを支える死」,これである.
 事態はその深刻さゆえに皮肉じみて見えるのである.まるでキャロルの«不思議の国のアリス»に登場する言葉遊びのような可笑しみを湛えて.[mb]
Sep 12

詩と死とゾンビとセキュリティ,あるいは鼠の動物化

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 ベルトルッチの「救いのないことを発見することが救いだ」という言葉は,現代においてはそもそも救いのなさ自体が確定できないということを教えている.
 この言葉は二つの意味に解し得る.一つは救われている人に対する「あなたの救いは本当の救いではない」.なぜなら救いのなさを発見してはいないから.もう一つは救われない人に対する「あなたが救われないのは本当の救われなさを発見してはいないからだ」.
 救いは救われなさの中にしかない.新手の宗教のようだが,「救い」という言葉に宗教的な響きを過剰に感じてしまうなら,こう言い換えてもよい.生は死の中にしかない,と.
 浅田彰はこの言葉に対し「詩としては美しいが,それだけでは終われないだろう」と書いた.詩.このような言い方でしか指し示すことのできない救われなさとは何か.また,「それだけでは終われない」のは何故か.

 かって救われなさは,例えばアドルノにより「アウシュヴィッツ以後,詩を書くことは野蛮である」という言明をもって示された.詩を書くことを批判することが目的なのではない.なによりこの言明そのものが詩になっている.
 単に「そんなものはとっくに一掃されているのだ」と歴史の無自覚への怒りをもって主張しているだけなのではなく,むしろナチスによる蛮行の身振りで詩というもっとも人間的な営みの一つを否定してみせているように感じる.そう感じるのは恐らく,その救われなさが,(もはや無効となったにもかかわらず)それでもなお詩によってしか乗り越えられなかったはずだからである.無自覚への憤怒でありつつ,むしろそれゆえに率先して自覚的であることによって,それは徹底して無根拠かつ暴力的な身振り「でなければならなかった」.そこには,倫理的たらんとするがために自ら野蛮なるものを擬態せんとする者による表現の異様なまでの説得性が漲っている.
 「詩を書くことは野蛮である」という言明,その根拠なき断罪の野蛮なる身振り=詩によって,救われなさ,というよりむしろ微かな救いが指し示されているかのようだ.詩を否定する程度には,詩がありえたという微かな救いが.

 アウシュヴィッツなき現代における救われなさは,救われなさすら一掃された地平に宙吊りにされている.ベルトルッチの言う「救いのないことを発見すること」自体が不可能ならば,「救い」には到達できない.
 二つの「詩」の様態の差異は,無意味と「無意味の一掃」,救いの不在と非在である.あるいはナチズムとスターリニズムとの差異とも言えるかもしれない.

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 かってデータベース的動物(東浩紀)であった鼠はいまやデータベースへの興味すら失い,講談社boxのみを惰性で買い揃えては積み上げつつj-popに没入し,それ以外の時間は妄想に費やしているということだ.妄想が楽しすぎるのだと彼は言っていた.データベースすら喪失すれば,ただの動物ではないか.
 鼠が動物だった,という衝撃の結末はギャグにもならないし犬も食わない.inputしなければoutputできないし,人と会わなければ伝達の意欲も失う.「文明とは伝達である.表現し,伝達すべきことが無くなった時,文明は終わる」とデビュー作で書いたのは鼠の好きな村上春樹だった.十代の頃,彼から「読んでみてほしい」と手渡され,作中人物の「鼠」が彼のニックネームとなった.そっくりだったからだ.
 同じくらいの時期,僕が興奮して池田亮司の«+/-»(96)を聴かせると,おおautechre超えてるじゃんなどと言っていたあの頃の最低限のキレが今となっては懐かしくもあるものの,もはや彼に対して絶望することだけはなくなった.いや「なくなってしまった」のだった.そして同じように,ビオス(政治的身体,生の形式),バイオス(基本入出力システム)双方の意味において,鼠はbiosを「失ってしまった」のだった.
 われわれは絶望的な気分になることがたしかにあるが,絶望を手にすることはもうない.この二,三日で蚊が出てきたようだ.


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 詩の様態における救いのなさが指し示す救いの不可能性は,鼠が動物であったこと以上に虚しい.「神話」(バルト)的イデオロギーへの転相を果たすことのないトートロジーとしての余剰なき表現様態.それはもしかすると真の「白いエクリチュール」なのかもしれない.「死の詩」はいつしか「詩の死」へと移り変わり,やがてはゾンビとして活動を再開してしまうのだ.そしてこのような微かな救いすら遺されてはいないという様態それ自身においてのみ救いのなさが指し示されているかに見える詩を否定することの無意味さは,結局のところ「詩の全面的な可能」となんら変わりない.美しくもあったり拙劣であったりもする一見普通の,しかしゾンビの詩.コンビニの棚に埋め尽くされる続々新入荷の詩.便利にはなったのである.
 にもかかわらず,だからと言ってアドルノに倣い「詩は無意味であるという言明にすら意味を見出せない現代は野蛮である」と書いてみたところで詩にはならない現代はやはり野蛮なのである,と書いてもなお詩には到底ならないのであり,才能ないなコンビニで素晴らしすぎる詩でも買ってくればいいかなでも店員はいらっしゃいませも言わないしまあどうでもいいことだなと思っている間にセキュリティ全面化法案が衆参両院全会一致で可決されるようなのである.
 それはこんな風にも言える.「ついに救済の時代がやってきた」.あるいは「自由の時代」.そう,これこそがutopiaなのである.マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが1963年8月28日に並び立てた「夢」だって全て叶ってしまうかもしれない.

 文学者が追い求めたエクリチュールの(不)自由の果てに,バルトは秩序からのいかなる隷従からも解放された白い/無垢なエクリチュールを見出だした(その極北が彼によれば俳句であった).だが問題なのは,どうやら自由の敵が自由であるらしいということなのだ.ベルトルッチの「詩」において,「それだけでは終われない」のはそのためである.

 「救済の時代」「自由の時代」という言い方はいささかアイロニカルに過ぎるものの,要するにこれは大澤真幸のいう「不可能性の時代」である.東浩紀の術語では「動物の時代」に相当するだろう.大澤は自らの時代区分が「理想」「虚構」などと非現実・反現実をモティーフにしている観点より,先に提唱された「動物の時代」を批判する.「『虚構』から『動物』への移行」という言い方はたしかに分かりにくい.
 だが大澤の「不可能性」もまた十分分かりにくいものではあるだろう.これは様相の論理であり,よって「不可能性」が(反現実・非現実というかたちで)現実と結び付いているということがすぐにはイメージできないからだ.彼は「現実(界)の不可能性の時代」と言いたかったのではないか.だからそれは,実質的には現実界に近接した象徴界を指示しているものと思われる.

 ゾンビ化ではなく「ゾーエー(生物的身体)」化と書いた方がよかっただろうか.だがそれだと「動物化」でいいじゃんということになるだけでなく,ゾンビ化に(勝手に)含意されているところの「スペース・バンパイア的状況」(マチルダ・メイの裸体ではなく)が消失してしまう.ここでは生ではなく死を強調しておきたい.たしかにフーパーの«スペース・バンパイア»(85)の原題は「life force」ではあるが,そこで描かれる「生命エネルギー」(/「真に人間的な営みとしての詩」/「ビオス」)を吸い取られることでびっくりするほどユートピアな阿鼻叫喚のロンドンには監視カメラが至る所に整備されているという状況こそが,われわれの現実にほかならないのである.
 ただしゾンビの顔面は白くて無垢である.現代においては「白いエクリチュール」にこそ気をつけねばならない.なんなら池田亮司の提起した「情報で充たされた圧倒的な白(+/-の地平,あるいはタブラ・ラサ)」に現代社会への批判(なんて無味乾燥な言葉!)を見出だしてみても良い.それは次のようにも言える.すべてが自由になったとき,われわれは最も困難な自由の問題に直面するのだ,と.

 ところでフーコーの生権力の突出による環境管理型権力の全面化とは,人間の動物的側面,アガンベンの区分による「ゾーエー」にのみ働きかけることでビオスが保守されることであると解せば,問題はセキュリティに帰属するレジティマシー(ハーバマス),つまり正統性の有無,というより有無それ自体を意識しないで済む状況であるということになりはしないか.つまりユビキタス・コンピューティング,個人認証等の全面化の認知が巧妙に技術的解消されることは十分想定されるわけであり,そのとき「自由」を巡る言説は雲散霧消しないだろうか.「例外状況の全面化」(西谷修)という見方は言うに及ばず,「ゾーエーにのみ働きかける=家畜化→アウシュヴィッツにおけるムーゼルマン(アガンベン)」/「スターリニズムにおける囚人」という図式には生権力における殺す権力と生かす権力の混同があるのではないか.
 個人認証といっても,ネット上の例で考えれば,われわれはその都度自同律を噛み締めているわけではもちろんない.むしろいま問題なのは,人々がこぞって認証されたがっており,もっといえば監視されたがっていることなのであり,なぜそんなことになるのかというと,規律訓練型権力による内面の精査(規範の内面化)が無効化(ビッグブラザーのポモ的消失)することで,もはや誰からも認識されていないことの不安にセキュリティ需要が合致してしまっている面があるからだろう.
 パノプティコンの中枢には誰もいないということに人々はとっくに気付いている.であるならば,大きな物語/第三者の審級/大文字の他者の凋落もしくは失墜にともなう前権力構造の消尽こそが偶有性,デリダによる(東経由の)確率性,交換可能性を縮減せしめているのであって,環境管理型権力によるものではないという見方もできないだろうか.
 環境管理型権力が権力の形態を伴うのか否か.東は大澤との対談で法としては現れないと説明し,護持されるべきものとして確率性/偶有性を挙げるのだが,これだけでは権力批判の論拠としては薄弱であると言わざるを得ないし,ではその時感じる(東の言う)「不穏なもの」とは何なのかに関してもはっきりとはしない.
 「不穏なもの」やそれゆえの「思想的な危機感」が,左翼的な感受性(という前提)に還元され得るのではないかという疑念は大澤・東の両者にもつ.「『表現の自由』『国家権力』『情報統制』と言った訴え方では効果がない」(東)という言い方は戦略の問題であり,初期前提としてはこれらの左翼的主張が保持されているという印象も受ける.だが,いま困難を被っているのはまさにこうした左翼的前提なのであって,その部分を不問にふし検討を加えないのなら,それらを足場としたいかなる理論もまた説得性をもつことはないであろう.リアリストを対立項/仮想敵として自己の内面に設定し絶えざる審問を心掛けることがどこまで徹底されているか.
 僕は日の丸を見ると生理的嫌悪を覚えるが,これは図像的な問題であり,学習の成果なのだと言える.理由は単純で,つまり,高校生のときに大島渚の監督した映画を浴びるように観たからである.大島はその作品(特に六十八年前後)において,戸田重昌とともに日の丸/国家権力の監視/空虚な天皇制に対しいかに吐き気を催させるかという空間演出における実験をし尽くしたと言ってよい.僕のなかで左翼幻想が希薄になってもなお,図像的な嫌悪の感覚は残存している.先行世代,とりわけ「主義」を標榜せねばならなかった時代を生きた世代が(東には当てはまらないが),なかなか幻想から抜け出せないでいるのも故なしとしない.

 「これは誰かの陰謀なのか!?」(忌野清志郎).いやそんなものは存在しないんだ.慣例に従いシステムが発動しているだけなのであり,そのシステムは,同じく悪意に怯える者たちによって運用されているにすぎない.だから悪意なんてどこにもない.中心には何もないのではなく,中心そのものがないのである.


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 そして鼠はそのことに耐えられないでいる.「敵がいる方が,不自由がある方が,救いのなさがある方が,まだマシだったじゃないか」.[mb]
Sep 11

音響

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部屋に流していた音楽が気付かぬうちに終わってしまっていて,なのにあたかも音楽が鳴っているかのような意識の姿勢のままに雨上がりの濡れた地面を聴いていた〈私〉が不意に主題化されたときの,あの取り残されたような感覚,その無音の感覚の下方を気にも留めずに流れ充たす空気清浄機の作動音の様に慎ましく包括的でいて哀しみに綾取られた,世界とは無縁な世界の音,何もかもが去ってしまった後にそれでもなお残ってしまう無時間の音を欲望していると,枕の擦れる音が馬の嘶きに.[mb]
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世界の襞.あるいは存在そのものの沈黙から生起するなにごとか.