〈喪〉の可能性について
死に向き合うにはふたつの方法があり得る.ひとつは可能なことが不可能になることとして.もうひとつは不可能なことが可能になることとして.しかし〈私〉とはひとりの他者のことなのだ. — エマニュエル・レヴィナス/アルチュール・ランボー(ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』)
広瀬大志の詩集『髑髏譜』に「死数」と題された一節がある.包囲され,ついには鬼たちの群れに襲われてしまった哀れな彼女に,「私」は恐る恐る声をかける.「死んでるのか?」.彼女は応える,「それ以上よ」.「私」は数に変わっていく.「もしもここが最後の数というのなら,一体どちらが死の側か」.
たとえば,かつてとても幸福な時代があったとして,それはもう二度と訪れないし終わってしまったということを,それを共に過ごした人と語り合い,「この人」が目の前にいてもなお「あの人」は圧倒的に失われてしまっているのだなというとき,大いなる喪失感とともに「あれは何だったのだろう」と感じる.
ところが,その目の前で会話する相手がこの世からいなくなり,世界からその肉体が消失してしまうと,そのときまでに至る,その人のタグが付され関連づけされたあらゆる失われた事柄が,リロードする度にその人へと統合され,その人が喪われたという事態へと時間を貫通してあまねく集約されることになる.
すると,あらゆる失われた事柄が,「あれは」ではなく「あの人は何だったのだろう」という形式の喪失感として,現在において一斉に失われてしまう.つまりその人が目の前にいてもなお失われていたはずだったものが再度,しかも一挙に,別の形で失われ直される.それは集約されることで各々を強化し合う.
「集約的再喪失」において,人は同じ人を二度失う,つまり失われた人を失うことがありうる.しかも多層的な霧のような記憶の伸縮に応じて,現前の消失という決定的な喪失の後もなお何度でも失われ続けうる.けれども事態は相反する層と折り重なっているようにも思われる.つまりそれはもはや失われない.
喪うことによって,ようやく失われないものを保有することができる.デリダが追悼文において述べたように,それは一つの「世界の終焉」(『そのたびごとにただ一つ,世界の終焉』)だ.それは自らの死を保持することと重なる.いやむしろ「自らを,死に負っている」(『留まれ,アテネ』)ことと重なる.
一月前,彼女は何十年経っても二十七歳のままなのだという話をしてきたが,厳密であるかどうかは別として,つまり自らの終焉を勘定に入れるかどうかは別として,それは「永遠に」凍結したのであり,失われたのではなく,一つの回帰なのである.喪失の喪失として,もはや失うことすらできないものとして.
わたしが驚く──ほとんど心配に(不安に)なる──のは,じつはこれは喪失ではないということだ(わたしの生活は混乱していないのだから,これを喪失のように語ることはできない).そうではなく,「傷」なのだ. — ロラン・バルト『喪の日記』
廃用化されたものへの愛着,それを保有しつつ失ってしまった何かを,自らのうちに留める喪. — ジャック・デリダ『留まれ,アテネ』
だがこれは他者性の消尽なのではない.死は死でありながらそれ以上の〈出来事〉でありつつ,けっして把捉することのできない時間のなかで彼女の孤独は滞留し続ける.一方,私の周囲には私以外の生ける者との関係性があり.必ずしも孤独な情況においてなのではない.にもかかわらず,〈私〉は孤独である.
亡くなった人を知る者たちが集まり故人の話をし合うのは,いまやそのあいだに滞留する空気の層としてしか故人が存在しているとは思われないからだろう.ここにこうして書き,読まれることもまた同じことだ.にもかかわらず,私の知る彼女は,私以外の者には知りえないのであり,私だけのものなのである.
そして私だけのものだからこそ,「あの人は何だったのだろう」という問いが解消されることはないばかりか,それは曇った鏡のような問いを,すなわち「〈私〉は何だった/何であるのだろう」という問いを随伴せずにはおかない.〈私〉は自らの孤独につねに遅れており,私の孤独はつねに彼女に遅れている.
自分が自分であること,自分が自分でしかないこと,孤独の源泉たる自らの終焉を抱えつつ,彼女=他者の差異性を測り続けること.それらがともに重なり合い,特異性のもとに混じり合い,負われてゆく.「喪の仕事」.しかし,はたしてそんなことが可能なのか.それはどこまで苛烈で,どこまで静謐なのか.
われわれに起こることにふさわしい者になること,したがって,われわれに起こることからできごとを望み,引き出し,それ自身のできごとの子となり,それによって再生し,生まれ変わり,肉から生まれた身と絶縁することである.(…)
こうしたひとは,日常を平凡に暮らすひととどれほど異なっているであろうか.それは,非人称的,前個人的な特異性のひとであり,雨が降るように彼が死ぬ il meurt comme il pleut 純粋なできごとのひとである.ひとの輝き,それはできごとそのものもしくは第四人称の輝きである.私的なできごとも,集団的なできごともないのはこのためである.個人的なものも普遍的なものもなく,特殊性も一般性もない.すべてが特異であり,したがって同時に集団的で私的であり,特殊であり一般的であるが,個人的ではなく,普遍的でもない.私的な事件でないような戦争はなく,逆に戦争によらず,社会全体を原因としないような傷はない.私的なできごとにはあらゆる座標がある.つまり,社会的・非人称的なあらゆる特異性がある. — ジル・ドゥルーズ,第二十一のセリー できごとについて『意味の論理学』
イマージュは貧弱であり,空虚であるほどに豊穣でもある.喪失において見たことのないものなど何一つなく,すべては新しい.人はいつも他人よりも先に死んでしまうし,死ぬのはいつも他人ばかりだ.天国はある,そしてない.死んでいるという形で生きており,あまりにも狭い墓地の上で,自由を恢復する.
「そして」,〈私〉とはひとりの他者のことなのだ.個別的な死と一般的な死が,一体化して層をなしている.──雨が降るように彼女が死ぬ,とブランショ=ドゥルーズはいう.ある者は,それだけのことだ,と訳知り顔でつけ加える.それだけのことに過ぎないのではなく,それほどまでのことに他ならない.
「失ってしまった何かを,自らのうちに留める」ことは,失われるものとして何かを自らのうちに留めることでもある.私はいずれ失われる,しかし〈私〉は自分の死を死ぬことができない.それは失われるのではなく「一つの回帰」なのである.「喪失の喪失として,もはや失うことすらできないものとして」.
われわれの救いは死である,しかし〈この〉死ではない. — フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』
死とは現在を欠いた時間であり,私はこの現在を欠いた時間に何の関わりも持っていない.私には死に向かって身を投じることはできない.なぜなら,死においては,〈私〉が死ぬのではなく,〈私〉は死ぬ能力を失っているからだ.すなわち,死においては,〈ひと〉が死ぬのであり,〈ひと〉が死に続けるのである. — モーリス・ブランショ『文学空間』
雨が降るように〈ひと〉が死に,〈喪〉が開始する.それはいつのまにか始まっているが完了する保証はどこにもない.七年前のブランショ追悼に際し,廣瀬純は「ブランショにおける〈死〉の肯定は,ドゥルーズにおける〈生〉の肯定へとリレーされる」(『ブランショの死とドゥルーズの生』)と書いている.
〈死〉や非人称的な〈ひと〉とは,私が把捉することのできない〈他なるもの〉であり,〈死〉の瞬間において〈私〉は,そして〈彼女〉は雲散霧消する.もはや誰でもあり,誰でもない沈黙のざわめき渡る中性的な領域は,混沌とした内在における「一つの生」という生命の存在様態にまで繋がってゆくだろう.
ブランショの引く「誰の死でもない死を私にくれ!」というリルケの言葉は,〈出来事〉という表層における爆発の煌めきとして受け継がれ,やがては深層=身体の別の在り方にまで波及することになる際限なき切断として〈他なるもの〉へと開かれながら,来たるべき人間の〈創造的進化〉を準備するのである.
たとえドゥルーズのいう〈生〉がわれわれの知っている「生」とは何の関係もないものだとしても,たとえバルトが悲嘆しつつ喪は断続的で変化がないと書きつけたとしても,非人称的な〈ひと〉が〈私〉へと浸潤する生成変化の「途上」,死者とのあいだの「リトルネロ」には,〈喪〉の可能性が広がっている.
存在するのと同時に過ぎ去っている〈現在〉と,死という捉えがたい〈出来事〉との「あいだ」にリトルネロ(リフレイン)はある.鳥の歌,暗闇のなかで子供が口遊む歌,動物たちのテリトリーの表現,混沌の外部へと開かれるために創設される領土──この領土こそ,私が〈喪〉を開始する場所=時間である.
それはすでに始まっている.いとけない歌であると同時に「耳はリトルネロの形をしている」(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』).集約される潜在的な〈過去〉の尖端において,つねに新しい〈未来〉へと押し出される〈現在〉は引き裂かれながら〈出来事〉の諸力を巻き込み,領土を拓きつつ開いてゆく.
出来事はわれわれに到来する.(…)死のこのような接近は,われわれが,絶対的に他なるものであるような何かと係わっていることを示しているのだが,ここにいう何かは,享受によってわれわれが引き受けうるような一過的な規定としての他者性を有しているのではなく,この何かの存在そのものが他者性からなっているのである.だから,私の孤独は死によって確証されるのではなく,死によって破られるのだ.
すぐに言っておくが,それゆえに存在は多元的なのである.この場合,複数形は存在者の多様性のうちにはなく,存在することそれ自体のうちに現れる.これまでは,存在者の存在することは独りの主体によって排他的に引き受けられ,苦しみによってあらわにされていたのだが,そのような存在することそれ自体のうちに,多元性が挿入される.死のうちで,存在者の存在することは他なるものに譲渡される. — エマニュエル・レヴィナス『時間と他なるもの』
非人称的な「存在すること」との融即状態から抜け出し,存在することとの「この」隔たりにおいて定位することによって,〈私〉は〈現在〉を不断に担いとり,存在することを「所有」する.それは同時に所有されることでもある.だが,〈私〉が存在することをどうしても所有できないような契機が存在する.
不在によって世界が苦悩を纏うのではない.「世界の終焉」において,なお〈私〉とは無関係なものとして世界が在り続け,「たったいま死んだものによって残される空所が,志願者の呟きによって充たされる」(『存在するとは別の仕方で』).手にした林檎からは意味が剥落し,それは異邦性の内に没し去る.
喪失という不在にかわって「存在の厄災」(レヴィナス)が,非人称的な〈ある〉(il y a)のざわめきが辺りを充たすなか,「心臓の恐ろしさ」(夏目漱石)に否応なく曝される身体に倦みながら,なおも死者と共に逃走線を引くことが可能であるとすれば,それはエクリチュールの営みにおいてである.
死が私において書くことによって初めて,すなわち,死が私を空虚な点にすることによって初めて,あるいは,非人称的なものが顕現することによって初めて,私は書くことができるようになる. — フランツ・カフカ(モーリス・ブランショ『文学空間』,「可能的な死」)
書くことがそれ自体で目的をもたないのは,まさに生が個人的なものではないからだ.あるいはむしろエクリチュールの目的とは,生を非人称的な力能の状態へ到らせることにある. — ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『対話』
わたしが必要としているのは孤独ではなく,(仕事の)匿名性である.
わたしは,分析的な意味での「仕事」(「喪の作業」や「夢の作用」というときの「仕事」)を現実の──書く行為という──「仕事」に変えてゆくのだ.
なぜなら
(愛や喪といった)大きな危機から脱するための(と言われる)「仕事」は,性急に解決されてはならないからだ.わたしにとっては,そのような「仕事」は,書く行為のなかで,書く行為によってしか,「なしとげ」られないのである. — ロラン・バルト『喪の日記』
ハイデガーにおいて「死」とは,各々の「現存在」に固有の「本来性」をもたらす最大の可能性であり,「不可能なことが可能になることとして」の死であった.だが,〈私〉の死と〈ひと〉の死が一体化して層をなし,〈私〉において〈ひと〉が〈書く〉のである以上,死は「不可能性の可能性」なのではない.
そうではなく,〈私〉の不可能性,「可能なことが不可能になることとして」の死なのである.「死という言葉を否定なしに読むこと」(リルケ).生と死は峻別できないものとしてどこまでも融解し,〈私〉は「生きながら死んでいる」という可塑的な状態への「途上」において,〈書く〉ことに身を置かれる.
死の接近に際して重要なのは,ある瞬間に,われわれにとって「もはや何かをなしうるということが可能ではなくなる」,という点である.まさにそこにおいて,主体はまさに主体としてのその支配を喪失する.(…)死,それは企図をもつことの不可能性である. — エマニュエル・レヴィナス『時間と他なるもの』
言語とは主体のない一種の意識であり,存在から隔てられた分離状態であり,異議申し立てであり,空虚さを創造し,欠如のなかに身を置く無限の力である. — モーリス・ブランショ『完本 焔の文学』
「存在すること」という否定的な非人称性は,〈他なるもの〉と重ねられることによって,言語を介して「不在が存在すること」のもとで〈書く〉ことの力の場をなしている,そこではレヴィナスのいう主体化の運動のなかで所有されることも,その融即状態から抜け出すことで非人称性が解消されることもない.
言葉によって事物は不在=死を孕み,そのことによって言葉は生き延びる.「死に耐え,死の中に自らを支える生」(ヘーゲル).あの人の痕跡が,消え去りゆく運動においてのみ現れることのできる痕跡の痕跡として,不在の不在として,不在への異議申し立てとして,あの人の死の〈死〉として「回帰」する.
〈書く〉ことによって再び現前する不在.誰でもないあの人固有の眼差しなき目が,滞留し続ける瞬間において遠いものの近さで語る沈黙の言葉,その反復する差異に耳を澄ませることがそのまま歌うことでもあり,それを内へと閉じることが別の仕方で開くことでもある.〈死〉が〈生〉へと接続されるように.
〈喪〉とは単純で,混沌とした,特殊で,一般的な,そのどちらでもない何か/誰かとの関係性のことである.それは何も言っていないに等しい.だがそのなかで創造的に〈書く〉こと.『アワーミュージック』で闘争の果てに死ぬオルガの向かった想像的な〈天国〉,そこでゴダールはある関係性を描いていた.
それは/何かの/イメージだ/ぼんやりしてる/二人が横に並んでる/私の横に女性がいる/見知らぬ女性だ/自分は分かる/だが私には覚えがない — オルガ・ブロスキー(ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』)