脆弱なる二人のダイアグラム──二〇一三年の『大いなる幻影』 *¹
天と地の間に「中間の高さ」を作り出さなければならないのだろうか. — ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』
空におけるように地上にひとつの場所を[UNE PLACE SUR LA TERRE COMME AU CIEL] — ジャン=リュック・ゴダール『右側に気をつけろ』
すでに過ぎ去った近未来二〇〇五年.サリンと放射能とに挟まれながら,誰も何もせず,誰かが何かをする世界.空には夥しい数の花粉が舞っている.
存在論的不安を抱える男.彼は時折この世界から光学的に,完全に消滅する.その存在の軽さゆえ.音楽関係の仕事に就いてはいるが,自己の「居場所」は見いだせない.プロデューサーはバーで海外の絵葉書を売る娘を冷たくあしらい,サムワン・ドゥー・サムシング,とつまらなそうに呟く.
男には恋人がいた.郵便局の受付をしながら時折海外小包をくすねてはみずからのコレクションに加える女.彼女は「ここではないどこか」に想いを馳せる.それは海外であり,ときには彼岸ですらある.実際飛び降り自殺を夢想しもする.その存在の重さゆえ.
「ここ」が/から消えるという点で両者は共通しているようだ.とはいえ関係は非対称である.さしあたり理由は女にあった.女にとっての「ここ」とは男がいる「ここ」でもあるがゆえに,「ここ」からの離脱は男の存在を端的に空無化するのである.なぜだか分からないが世界はそのようになっている.
世界は騒々しく女を誘惑する事象で充ちてもいた.どうして誰も何もしないの?と繰り返し屋上から身を投げる同僚,ブラジル音楽隊,ナンパ男,近所で痴話喧嘩をする外国人カップル,その彼女から譲られた風にはためく民族衣裳──それらすべてはまだ見ぬ「外」の世界を指示していた.にもかかわらず,中国系の女性の部屋に貼られた国境なき世界地図には日本が存在せず,くすねた海外小包に入っていたほうずきの種から育てた実を食せば腹を壊し,隣人のアラブ系の男性と通路を譲り合うと互いが進めず立ちつくす.そして旅行鞄を引いて空港に向かうも彼女だけは受け付けてもらえぬカフカ的状況──縹渺とした海の「向こう」から漂着するのは骨と化したる異国の兵士である.
女「このまま終わっちゃう……このまま終わっちゃう……このまま終わっちゃうの?」
男「僕がいるだろ?」
女「どこ?」
男「ここにいるじゃない」
女「どこにいるの?」
男「ここだよ」
女「ここって,どこ?」 *²
「ここ」はない.しかし「ここ」からは離れられない.彼女の内面における抑圧機制がその原因であることが劇の終盤に明かされる.あるいは,抑圧されたものは「外」から回帰するのだとフロイトが述べるように,それは女による「ここ」の否認と「ここではないどこか」への羨望に対する何らかの抑圧,その代償のようなものかもしれない.ファシスト集団である *³.
女が「ここ」から離れようとすればするほど,「ここ」は,そして男の存在は稀薄になってゆく.彼は自己の「居場所」を求めてプロデューサーの手引きで窃盗団に帰属することになるが,そこは堕ちた者の吹き溜まりにすぎなかった.
そのような二人はまったく別の経路から互いがそうとは知らずに花粉症特効薬の試験モニターとなる.薬の副作用は,生殖機能の喪失である.男の部屋の壁が二人によって塗装用ローラーで青と黄へと半分ずつ塗り分けられ,あたかも青のテリトリーが黄の諸力に巻き込まれるごとく,黄の側には塗られぬままの円型が野戦における小さな塹壕=「ここ」として取り残される.黄は薬の円筒型ケースの黄色であり,プレハブ小屋で二人を分かつ引き戸に貼られた紙の黄色である *⁴.
花粉症を克服した男は防護マスクの人々を尻目に散歩に耽る.たった一人の世界は自己を同定する彼の「居場所」となった.女にとってもそこは「ここではないどこか」でありえた.国家による「富国強兵」への抵抗のささやかな拠点 *⁵として「ここ」が創設されるかのように,あるいは不確実な放射能の拡散予測図が「ここ」を可視化し利害主体たる個人と変化すべき社会体の領域とを一時的に接続するかのように,脆弱なる二人による「ここ」をめぐる問題の個別的解決は,セックスの否定を経て,畢竟「ここ」へと収斂する.二人の関係,その微かな永遠性の提示である *⁶.
ラスト・シークエンスにおいて,窃盗団として男が覆面を被って襲撃した場所は期せずして女の働く郵便局だった.女は受付窓口のビニール・カーテンで隔てられた「向こう」から男を「ここ」へと引っ張り入れ,ふたたび消滅しかけた男の手を取るだろう.その場であのブラジル音楽隊のリズムが轟きわたり *⁷,鳴動する「ここ」は幾重にも折り重なりながら突如として創設されつづける *⁸.闘争は継続し,二人はこうして生きていく.たとえそれが「不毛なる幻影」(barren illusion)であったとしても *⁹.
*1 黒沢清『大いなる幻影(Barren Illusion)』(一九九九).
*2 完成台本抄録(『大いなる幻影』劇場用パンフレット,ユーロスペース,一九九九年,二四-三一頁に収録)を参照した.
*3 佐々木中は一二世紀中世解釈者革命の意義を語るなかで,法=テクストの情報化・客観主義的表象化による政治と「藝術」の分離,すなわち無関心性という「藝術」の政治からの締めだしによる抑圧こそが,一方でテクスト=情報における異物・外部として暴力を括りだすかたちでつねにそれを随伴させざるをえなくなったがゆえに革命をして暴力革命へと顛落せしめたばかりでなく,暴力を括りだした法=情報の残余として近代主権を,美的にして野蛮なるイメージの権力を「藝術」に代わって析出せしめ,他方でファシズム・スターリニズムにおける政治・権力・暴力の根源的な力として「藝術」を外から回帰せしめるに至ったのだと,フロイトを引きながら論じている.佐々木中『切りとれ,あの祈る手を』,河出書房新社,二〇一〇年,一五二-一六七頁.「『ここ』の否認と『ここではないどこか』への羨望」は,女の鏡像的世界においてフェティシズム的なるもの(否認作用)として表象されている,あくまで構図的には.「ブラジル音楽隊」を初めとする魅惑する「外」の理想像がその対象であり,よって「ファシスト集団」による「藝術」の「抑圧」(の回帰)とは区別される.フェティシズムにおける映像の「凝固」が現実の「否認」を未決定性の「宙吊り」に置くものならば,二人による「藝術」とはこの「否認」による内在的な異化をとめどなく反復する執拗な営み以外のものではない.「抑圧」(の回帰)は,ゆえにこの「否認」ないし「藝術」の何らかの一時的失敗(の帰結)を表わしていると解しうる.「藝術」と「否認」(フェティシズム)の関わりについては註8のマゾヒズムの箇所を参照.
*4 ドゥルーズ=ガタリは『千のプラトー(中)』(宇野邦一他訳,河出文庫,二〇一〇年,三三〇頁)で「領土」を編成(アレンジメント)しながら混沌のなかに「ここ」を創設することを「リトルネロ」(リフレイン)と呼ぶ.それはテリトリーを示す動物の繰り返されるさまざまな表現であるとともに,「藝術」の起源である.「藝術」は「テリトリーを裁断し家をつくる動物とともに始まる」(ドゥルーズ=ガタリ『哲学とは何か』財津理訳,一九九七年,二六〇頁).たとえば,青と黄による緑の生成が反復されるレオ・レオニ『あおくんときいろちゃん』(至光社,一九八四年)におけるリズムのように.註8参照.
*5 「死語辞典でも調べてほしいが,DINKSという言葉がある.Double Income-No Kids,つまり共働きで子供を作らず,ふたりで楽しく暮らそう,とする夫婦またはカップルを指す言葉だ.やがて富国強兵をめざす政府の方針で抹殺を余儀なくされたが,当時の若者たちにとってはひとつの理想像だった.(…)当時は若者の消極性・自己中心性の現れくらいにしか思われなかったこの言葉こそ,実は我々を取り囲み,個を蝕む社会のシステムに抗う極めて有効な手段だったのではないか」(青山真治「大いなる『映像=イデオロギー』」『われ映画を発見せり』,青土社,二〇〇一年,一三二頁).一九八〇年代の「富国強兵」に対し,われわれは二〇一〇年代のそれを指す.ただし,二人の盲目的戦術は「国家」という形式の内部におけるかりそめのアレンジメントにすぎず,その有効性の期限ははやばやに訪れるものに思われる.註9参照.なお,青山真治は本作で拡声器を持ったファシスト集団のリーダーとして出演している.
*6 『右側に気をつけろ』(ジャン=リュック・ゴダール,一九八七)において字幕「空におけるように地上にひとつの場所を」に重ねられるオフの声「話を作りすぎず,笑わず泣かずと決めた.永遠には永遠のまま違えずにおくがよい」(強調引用者)の遠い反響を聞き取ることもできるかもしれない.黒沢清は『大いなる幻影』を「永遠の愛」という主題のもとに構想している(黒沢清「『大いなる幻影』シノプシス」『映像のカリスマ 増補改訂版』,エクスナレッジ,二〇〇六年,三五六頁).「世界はその永遠性を保証するのに,生殖や結婚といったシステムしか用意しない.このシステムを拒絶した二人にとっては,おそらく愛はひとつの不幸だ.やがて自分自身をも見失う.(…)それでも二人は永遠の愛の中で生きていこうとする」(黒沢清「『大いなる幻影』によせて」『大いなる幻影』劇場用パンフレット,一六頁.強調引用者).無論,普遍なるものも不変なるものもありはしない.だがフーコーにおける「キュニコス的戦闘主義」を論じて佐々木中が書くように,「『別の生』への変化の希求の,異常なまでの執拗な持続」(佐々木中「この執拗な犬ども」『定本 夜戦と永遠』下巻,河出文庫,二〇一一年,四〇三頁)はありうる.超歴史的なものはありえないが「超歴史的なものへの反抗の超歴史性」(四〇三頁)はありうる.「不滅なもの,永久なるものなどなく,それはつねに転覆しうるということ自体の『永遠』である」(四〇三頁).ここにしみったれた感傷はない.
*7 女の「手」をフォロー・パンするカメラが男の肩を捉える直前にブラジル音楽隊の演奏が流れだす.女はその演奏のリズムで肩を叩き,目を覚ました男の「手」を取る(演奏は二人がただ石段に座っている次のラスト・カットにまで及び,そのままエンド・クレジットまで続く.「ここ」がリズムに変換され,リズムだけが続いてゆく.「目は閉じられる,口は閉じられる.耳を閉じることはできない.精神医学の知見を見ても,耳は感情に開かれた器官である[中井久夫氏や神田橋條治氏を参照].藝術を開始する,領土を宣明するための藝術,それは聴覚に関わる」[佐々木中「『夜の底で耳を澄ます』を要約する十二の基本的な注記」『砕かれた大地に,ひとつの場処を──アナレクタ3』,河出書房新社,二〇一一年,八七頁.強調引用者]).光学的に消滅していた男の出現(フレーム・イン)と音が結合し,女の「手」のリズムが同期して重なり合い,男と女の「手」が結合することで「ここ」が生起するというプロセスが,音-映像の局所的結合を連続的に繋ぎ合わせることで構成されている.平倉圭は,『右側に気をつけろ』の後半におけるシークエンスで「手」の結合がさまざまな音-映像の「ミキシング」(音-映像の脱結合化によって新たな結合可能性をもたらすゴダールによる編集の方法論)とともに並べられた極めて複雑な構造を分析している(平倉圭『ゴダール的方法』,インスクリプト,二〇一〇年,八〇-八一頁).「あるときは走行音がふっと小さくなり,スクリーンに車窓だけが映し出され,レ・リタ・ミツコが歌う『セ・コム・サ』(一九八六)冒頭の単調なベース音と歌声がフェイドインする.歌のリズムは流れ去る風景のリズムとひとつになる./警官はかつて連帯した同志であったはずの『個人』を国境外の監獄(?)に引き渡そうとしている.ばらばらに引き裂かれようとしている彼らは,しかしその『手』において一瞬だけ結合を取り戻す.人物たちの局所的結合が,音-映像の局所的結合と交叉しながら現れては消えていく」(八一頁).
*8 「ここ」の創設はジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳,法政大学出版局,二〇〇六年)における〈大地〉と関係する.〈大地〉とは,イメージの回想が映画の「偽なるものの力能」(一八三頁)によって際限なく横滑りを引き起こし過去の諸層(シミュラクル)が識別不可能に共存するとき,出来事の同一性が破壊され「私」が「他者」となる「生成変化」の局面において,あらゆる過去の最深部にあって時間を錯乱させ記憶を崩落させる「純粋回想」の地帯であり,「永遠の現在としての死」「普遍的生成変化としての時間」(一五九頁),すなわちニーチェとアルトーが呑み込まれたあの〈外部〉である.過去の諸層の無限定な底部に広がる「層化されていない実体」は,あらゆるイメージを内在的に破壊し分解し解体する.後に錯乱的な想起によって無差別・無分別に無数のイメージをヴィデオ・グラフィカルな操作で結合していくことになる『映画史』(一九八八-九八)へと至るゴダールの作品について,「言葉の手前で,あるいは彼方で,世界への信頼を再発見する」ためには「天と地の間に『中間の高さ』を作り出さなければならないのだろうか」(二四一頁)とドゥルーズが言うとき,それは〈大地〉からの距離設定を示している.「出来事とは,つねに抵抗であり,言語行為がもぎとるものと大地が埋め隠すものの間にある.それは天空と大地の間,外の世界と地下の炎の間の循環」(三五二頁.強調引用者)である.夢におけるように「(…)われわれは様々な年代の諸断片から一つの連続体を構成する.二つの層の間で行なわれる諸変換を利用して,一つの変換の層を構成する.(…)われわれが本を読んだり芝居を観たり絵画を眺めたりするとき,ましてやわれわれ自身が作者であるとき,似たようなプロセスが起動する.われわれは一つの変換の層を構成するのだが,それは複数の層の間に一種の横断的連続性あるいは交通を作り出し,局限不可能な諸関係の集合を織りあげるのである」(一七一頁.強調引用者).「変換の層を構成する」こと,すなわちドゥルーズが「大地」(地層化作用)から抜けだし諸対象の「脱領土化」を可能とするものとして提示した「ダイアグラム=抽象機械」の案出は,「識別不可能性の〈大地〉から.空に向かって,少しだけ浮上し,天と地の間にこの生を立ち上げるために,この貧しき身体という草を『信頼』し,この世界と自らの絆を『信頼』」(平倉圭「識別不可能性の〈大地〉──ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』」『思想』九九九号,二〇〇七年八月,一三九頁)することに賭けられている.それは「辛うじてもぎとられた『言葉』」が,「純然たる『仮構=作り話』として」(一四〇頁.強調引用者),さらには「狭義の言語を突き抜け」た「叫び」(一四二頁.強調引用者)として生き延びようとするプロセスにほかならない.
平倉圭は,ジャン=リュック・ゴダールの『ヒア&ゼア・こことよそ』(一九七四)における字幕「見ることを学べ,読むことではなく」という『ゴダールのリア王』(一九八七)や『ゴダール・ソシアリスム』(二〇一〇)でも繰り返される台詞を引きながら,「見ること」による「地獄の生成変化」を押し進めるゴダールと,その作品を「解読」し「語ること」によって死の〈大地〉から引き剥がさんとするドゥルーズとを対比している(一三七頁).「ダイアグラム」とは「見ること」と「語ること」,すなわち可視性と言表可能性とを構造化する無形の「装置」(フーコー)であり,「それはさまざまな社会の間を飛ぶ.地理的にも歴史的にも」(『定本 夜戦と永遠』下巻,三六四頁).ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,二〇〇七年,特に九六,一二四-一二六,一五六-一五九頁参照.この点では,黒沢清の他の諸作とは「やや距離を置いているように見え」「すがすがしい」(「大いなる『映像=イデオロギー』」,一三二頁)印象を与えもする『大いなる幻影』はドゥルーズに近いということになり,また〈地獄〉(カオス)からの生還ツールとして政治的にかつ一時的に機能しうることにもなろうが,とはいえ平倉が註で触れてもいるように,黒沢清という映画作家自体はまぎれもなくゴダールの側に,すなわち「地獄の生成変化」の側に立っている.「[〈大地〉から]生え出るのは,地獄からきてこの世界を終わらせる植物でもあるだろう.この種の直観が,黒沢清の作品群をつらぬいている(『カリスマ』[一九九九]).黒沢の最新作『叫』(二〇〇六)は,想起の不可能性,女性たちの識別不可能性,そして世界を〈大地=海〉に沈める『叫び』の連鎖によって,ドゥルーズが回避した地獄の生成変化を果てまで進んでいる」(「識別不可能性の〈大地〉──ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』」,一四二頁.『カリスマ』[一九九九]の前作にあたる短編ドラマ作品『木霊』[一九九八]において,脚本の高橋洋とともに黒沢は「地獄からきて世界を終わらせる植物」をすでに登場させている).『カリスマ』のラスト・シーンで役所広司は炎上する街の遠景を眺めて山を下りていくが,『回路』(二〇〇〇)で焰に包まれながら壊滅する東京を脱出し南米へと向かう船舶には指揮を執る彼の姿がある.この二作の狭間に『カリスマ』の次作『大いなる幻影』は一見開け放たれた天窓のごとく位置しており,事実他の作品に頻出する「世界に伝播する禍々しきイメージ」がこの作品には見当たらないのだが,荒れ狂う〈地獄〉からは幾分離れて,というよりむしろすでに〈地獄〉に直面してしまった抜け殻のごとき人間=〈ニンゲン〉の乾いた索漠たる日々の静謐を湛えつつ,なおも「外」の不穏なる前兆じみた気配は至る所に滲み込み二人を安んじさせることがない(正確には『回路』の前にもう一作,郊外に住む夫婦の慎ましい日常が「外」から侵入した少女[の幽霊]によって翻弄されることで,〈幻影〉としての「ここ」が──「幽霊」を転用した新たな「ここ」の創出が目論まれるも──内部から崩壊していく過程が描かれたテレビ・ドラマ作品『降霊』[一九九九]がある).
『ニンゲン合格(License to Live)』(一九九八)において「『ありえない現実』を『敢えてあるかのように』」(宮台真司「家族の再生は可能か──黒沢清監督『ニンゲン合格』の意味」『ニンゲン合格』劇場用パンフレット,大映株式会社,一九九九,八頁)刹那の〈幻影〉=「家族」を生きた主人公の〈ニンゲン〉が,「お前は確実に存在した」と語りかけられながら息を引き取るように,あるいは『アカルイミライ』(二〇〇三)において段ボールを蹴り上げながら街を練り歩くゲバラのTシャツを着た稚拙な若者たちが,伝播する半透明の〈クラゲ〉とともに「アカルイミライ」を担う存在としてその無垢を肯定されるように,黒沢清の作品には,かそけくも惨たらしい「現実」の片仮名表記による〈幻影〉化の操作が,その「現実」のただなかにあって不可能な「別の生」を到来させることになるという,いわば楽観主義的な悲観主義,楽観主義がそれに引き裂かれることにこそ存している悲観主義ともいうべきものがある(『ココロ,オドル.』[二〇〇四],『トウキョウソナタ』[二〇〇八].「お前は確実に存在した」と主人公を肯定する父親の友人は,〈幻影〉を生きた彼を知らない.「家族」が集うときには行方を暗ましふたたび離散すると舞い戻る友人にとって,「現実には何も起こらなかった」[「家族の再生は可能か──黒沢清監督『ニンゲン合格』の意味」,九頁.強調引用者].「肯定」はむしろ両者が行き違うことによって機能している.あるいはその根拠なき身振りによって.『アカルイミライ』[私は許す.私は君を許す.私は君たち全部を許す]や『叫』[あなただけ許します]における「許し」もまた許す側と許される側は擦れ違い,噛み合わないゆえに抱き締め合い,もしくは生き延びる[そもそも「君たち全部」とは「世界」のことである.黒沢清インタヴュー「世界すべてを許す」『映画芸術』四〇二号,二〇〇三年二月,五九頁参照].「肯定」や「許し」にはいささかの「正しさ」もなく,獄中から指令を出す『アカルイミライ』の殺人犯が「行け」の姿勢を固定させたまま縊死するように,「宙吊り」のなかで引き裂かれることによって無根拠のままに結合されるのだ.『ニンゲン合格』で拙劣な歌を唄いニューヨークで歌手になるのと無根拠な夢を嘯く一三年後の「ドレミファ娘」は[設定は主人公と同じ二四歳である],〈幻影〉を生きる先達者として積み上げられた段ボール箱に巻き込まれもしつつ,ビア・ホールで唄い終わってから手に取った絵葉書を主人公の読んでいる本に言葉もなく挟み込む.その絵葉書が不意に視界に広がるラスト・カットにおいて,観客はそれが摩天楼の風景であることをようやく知ると同時に,彼女の唄った調子っぱずれの歌が〈幻影〉ヘの惨たらしい讃歌として重なることで,その瞬間引き裂かれるような「肯定」に立ち会うことにもなる.音-映像の結合による「楽観主義」は引き裂かれることにその根拠を有するのだ.ビア・ホールの薄暗い店内で唄う彼女の肉体が,赤いドレスとともにどこか柔らかな「棒杭」のような死体じみた艶をその浅黒い肌に纏っていたように,「楽観主義」にはつねにすでに禍々しきものが浸透している).「世界が全滅することなんかない,と考えるのは本当の楽天とは僕は思えないんです.世界が仮に全滅してもかまわないって考える,そのほうが僕は楽天的で前向きであると思う」(黒沢清インタヴュー『Spotting』一〇号,二〇〇〇年二月,六二頁).あえて極端なことを言えば,明日この世界が滅亡することをただ一人確信していながら,そのようなことは何ほどのことでもないという精神的姿勢で病人の世話をし樹を植えて翌日を過ごすということである.こうした姿勢は片仮名表記をタイトルに含む作品だけに限られるわけではなく,〈幻影〉化において引き裂かれる「肯定」は少なくとも九〇年代以降の黒沢清のフィルモグラフィを貫通しているものだ.彼の作品にあっては,「現実」が「実際にはこの程度のものにすぎない」ものとして見る者の視界に浮上する.空洞化した物質空間がわれわれのよく知る「日常性」として提示される.その映像は〈幻影〉を纏い,どこか見慣れぬ奇妙な違和感をもたらしつつ朽ちている.まるで無惨に朽ち果てることの虚構性だけが「現実」を描きうるとでも言うように.しかし,その「現実」とはいかなるものなのか.たとえば一条の光が,自然光であれどこかしら虚構的な,あるいは絵画的なとも言いうる操作によって建物の薄暗い内部空間へ差し込んでいる.小津安二郎の日本家屋におけるような壁面への露骨な光の照り返しが人物にまで当てられるに及んでは,あまりに作為的にすぎるようにも感ぜられる.その居心地の悪さは「一般的な(とされる)現実」ではありえないが,神秘的で夢想的なものでもありえない.〈幻影〉の即物的な演出が,代わりに撮影現場の不確実な「現実」を露呈してしまいかねない事態の危うさによって観客を戸惑わせるからだ.こうして〈幻影〉は確実に引き裂かれることになろう.だが,ここで〈幻影〉化に賭けられているのは,そのような憚らざる「現実」を突如として「変貌」させる〈地獄〉の召喚なのである.フィクショナルな〈幻影〉化はその作品が「寓話」であることを示唆しているとも言いうるが,それはあくまで「寓話」が「現実」から逃れる運動のうちで解体されることにおいてのみ「現実」に到達しうるという意味においてである.「一般的な現実」を「否認」することで,〈幻影〉は身も蓋もない「現実」の不確実性およびそれに蝟集する空疎な物質性によって凶暴に引き裂かれる.そしてこの引き裂かれた〈幻影〉こそがなおも「現実」であるという捻れをともなう演出において,身も蓋もない「現実」のマテリアルな質感に浸透する不気味な何ものかがある.そう,剝がされた壁紙の痕が不吉な抽象画のごとく一面に広がっているとき,それはいつしか黒ずんだ血痕の織りなす生々しい「現実」に「変貌」している.パンフォーカスの深度が,数百年のあいだ塗り重ねられてきた壁の腐蝕した地層までをも浮かび上がらせるかのように.「それは,キャメラにおさまることで廃屋として生き始めようとする物質の悪意が跳梁する空間である」(蓮實重彦「『Charisma』または植物的な暴力について」『カリスマ』劇場用パンフレット,日活株式会社・東京テアトル株式会社,一九九九年.強調引用者)──〈幻影〉は,恐怖映画においてもっとも露骨なかたちで表現される.多くの作品と同様に,そこでは頻出する半透明のビニール・カーテンというエフェクティヴな舞台装置によって直接的に〈幻影〉化されもしよう.〈幻影〉として示される「現実」においては,〈幽霊〉として示される「人間」もまたにわかに物質的な様相を露わにしはじめることになる.張り巡らされた鈍光のもとで〈地獄〉の瘴気に霞むビニール・カーテンが人を「黒い染み」へと変えるとき,表層的なイメージの淡い滲みから把捉しえぬほどに不気味な何ものかが迫りだしてくる.無論,ここには「覆い」をめぐる「欲望のイメージ戦略」が恐怖表現として活用されており,ヴェールを取っ払うことで〈地獄〉を現出せしめる機会がつねに虎視眈々と窺われているのは言うまでもない.不可視のスクリーンに向けて投影される映画そのものが孕む闇のように,覆われた何の変哲もなく身も蓋もない(はずの)「現実」が知らぬ間に陰惨な〈地獄〉へと変換されている,というのがこの映画作家の魔術的なセオリーである(「真理の次元が打ち立てられるのを我われが見るのは,まず初めにある嘘という形で,そして嘘を介してすら打ち立てられるものとしてなのです.厳密にいえば,嘘の中でも真理の次元は揺らぐわけではありません.というのは,嘘はそれ自体真理の次元で自らを示すからです」[ジャック・ラカン「分析と真理,あるいは無意識の閉鎖」『精神分析の四基本概念』小出浩之他訳,岩波書店,二〇〇〇年,一八二頁]).〈幻影〉の見慣れぬ印象は,しかし半透明のビニール・カーテンのような舞台装置がどの空間にも置かれていることの違和感でもある.そしてたとえば,建築物のある要素のパラメータだけが極端に操作されている.非現実なのではない.警察署,拘置所,病院,郵便局,公共職業安定所などが「一般的には知られていないが,『現実』は案外このようなものである」かのようにどこかしら楽観主義的な挙措を通じて提示され,しかるにこうした操作そのものが人の居心地を悪くさせるための虚ろな外観を纏わせること以外の何ものでもない.即物的な演出においては建築物の不確実な物質性が前景化してくるのであって,想像的で夢想的なるものは立ち現れると同時にその反作用によって磨り潰されている.〈幻影〉とは「現実」からの逃避ではなく「逃走=漏洩 fuite」なのであり,「それは想像的なものの反対である.(…)配管を破裂させるように,ひとつのシステムを逃走させること」(ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『対話』江川隆男他訳,河出書房新社,二〇〇八年,六一頁.強調引用者.なお『ドレミファ娘の血は騒ぐ』[一九八五]は,この箇所を含む「逃走とは決して行動を諦めることではない」から,および「逃走の線にはつねに裏切りがある」から始まる『ドゥルーズの思想』[田村毅訳,大修館書店,一九八〇年.『対話』の旧訳に当たる]の引用がそれぞれ無邪気に書かれた立て看板を映り込ませている)である.「一般的な現実」をそのままずらすことであり,内在的に差異化することである.ただし,ずらされたときにはもはや「一般的な現実」などというものは存在せず,虚の中心として,〈地獄〉=「現実」としてヴェールを介して震えおののかれるべき脅威へとしかるべく変換されているのだ(例外的に二地点間に位置する移動シーンにおいては,ジャンル性への過剰な忠誠が「隔離」されたゆえか,決まってスクリーン・プロセスの古典的技法が使われることで,演出の即物性とは裏腹に,「ずれ」の虚構的な拡張による〈幻影〉化の亢進がシーンを想像的な非-場所として浮遊させる).〈幻影〉化とは,現実の行動の様式として理解される限りでの「表象」の変換と言える.そしてその一連のプロセスを組織化するための段取りが「演出」と呼ばれるものである(やはり頻出する空洞化した建築としての「廃墟」の表象を,カタストロフに崇高を見いだすロマン主義的廃墟美学にではなく,時間的にずらされた「現実」の「アナクロニズム」に求めることができるだろう.〈地獄〉に凌辱された「事後性」[フロイト]の,〈幽霊〉化した物質空間として.「惨劇の後という意味においての『事後』」[梅本洋一「日本映画の風景をめぐる状況について」,二〇一一年七月.http://www.nobodymag.com/heibon/node/79 ].時間の厚みを抹消されることであらゆる過去が呼び覚まされるかのようなその場所は,理不尽な暴力の噴出する舞台であるとともに〈地獄〉へと開かれた「穴」である.後述するが,〈幻影〉化は逆に「先取りされた廃墟」として捉えることができる.なお建築物そのものの被る〈地獄〉の力の表現には,『CURE』[一九九七],『降霊』における「外部の力」によるテーブルや天井の震動,『叫』の「地震」などがある).映画を現実との戦いとして捉えているのかと問われ,黒沢は次のように答えている.「自分ではそう思っているんです.戦いといいますか,微妙な関係ですね,もう一つの現実を作っているっていうことになりますから.戦って組み伏せようとか,なきものにしようとかっていうことは思っていないですね.現実があって,一方で脚本で考えたらフィクション,頭の中ででっち上げたものであって.映画っていうのはそのちょうど真ん中でやっているわけですね.現実がちょっと組み変わって,これにちょっと近づいて.これに沿って切り取られた現実が,つまり現実とフィクションの中間のどこかに出来上がるしかないものである,と思うんですね.それをもう一つの現実というか,物語というかはわからないですけれども.必ず両者の間の力関係なんですね」(斎藤環・黒沢清「黒沢清を診る」[『STUDIO VOICE』二七二号,一九九八年八月,六二-六三頁に収録]未掲載箇所.強調引用者.以下のURLから閲覧できる.http://web.archive.org/web/20070214061724/http://homepage3.nifty.com/tamakis/%8D%D6%93%A1%8A%C2/kUROSAWA.html ).直後で触れられてもいるように,「両者の間の力関係」とは「映画の原理と世界の原理との壮絶な覇権闘争」(「『水虎』をめぐって──往復書簡 VS高橋洋」『映像のカリスマ 増補改訂版』,二九〇頁.強調引用者)のことであり,つまりは楽観主義と悲観主義,〈幻影〉と「現実」との折り重なりによる「ディゾルヴ」(なし崩し的な再結合)がここでは述べられている.「一つの問題に二つの解があるのではない.つねに二つの問題と,一つの解がある」(『うまくいってる?』[ジャン=リュック・ゴダール,一九七六]).「二つの問題」は「溶解 dissolution」し,「一つの解 solution」としての「ディゾルヴ dissolve」=「もう一つの現実」を図らずも画面に浮かび上がらせる.ゴダールにおいては,視-聴覚イメージの知覚的「実例」たる「ディゾルヴ」の提示が,映画的イメージを結合する際の内在的な「正しさ」(根拠)を保証する.不定の「ディゾルヴ」の感覚的強度をもたらす「結合」の内在的原理とは,「類似」である.形態的もしくは提喩的な「類似」による「溶解」=「ディゾルヴ」はしかし,その不穏なる識別不可能性において「偽なるものの力能」を発動し,連結されたイメージのユニットを押し流さんとする〈地獄〉の奔流をその足元に喚び寄せざるをえない.『ゴダール的方法』,第四章参照.かくして「二つの問題」は呪術的形式へと変換される.黒沢清は,ゴダールの特異な編集方法を「現実」(「世界の原理」)との関係性において形式的に実践する.が,そこで問題となるのは「現実」との「類似性」ではない.「二つの問題」の「間隙」がなし崩しに覆い隠されるようなもっともらしい「リアリティ」(たとえば「人間ドラマ」[あるいは「撮影された演劇」].黒沢清「人間なんかこわくない」『映画はおそろしい』,青土社,二〇〇一年,二五二-二六五頁参照)の宥和を黒沢は断々乎として斥ける.彼にあって「類似」は原理などではなく,混濁した「現実」を引き摺らざるをえない「ずれ」の結果である.〈幻影〉はどうしようもなく「現実」に「類似」する.それはあまりにも毀れやすい.「カメラは悪意のごとく冷徹にモノを写しとる」(「映画のある場所」『映画はおそろしい』,六〇頁.強調引用者)機械であるほかなく,その「現実」の身も蓋もなさはすでにリュミエール兄弟において示されてもいたのだった(カメラの「悪意」は,映そうとする「現実」だけが映ることの不可能性[不確実性]として現れるが,一方で黒沢の言う「光学的現実」[非中枢的なイマージュ]においては,映そうとする「現実」だけが映らないことの可能性としても現れる.たとえば「形容詞」は映らない.「カメラは実は素っ気ない光学機械なのであって,私たちが目で見,体験する現実と,光学的現実とは随分違っている.で,映画作りはこれとの戦いになる.どうやれば形容詞が撮れるのか」[「CURE・ロケ地再訪」『映画はおそろしい』,三〇一-三〇二頁.強調引用者].つまり「映像は,現実からある種の意味をはぎ取りもする,別の何かをつけ加えもする.でもそれを完璧に把握して操ることはできないのかもしれない」[黒沢清インタヴュー『Spotting』一〇号,五八頁].「反人間[中心]主義」的な「悪意」によって「ある種の意味をはぎ取」られた「形容詞」のない映像には,「この現実を表現するための現実」が映っていない.「別の何かをつけ加え」られた映像には,「自らを表現するための現実」が執拗に映り込んでいる.あらゆる実際的諸条件のもとでの集団的な作業であるほかない映画制作の不確実な「現実」の数々から逃れることなどできはしない.どちらも「ある光景を,嫌になるくらいそのある光景のまま記録する」[「CURE・ロケ地再訪」,三〇二頁]カメラによる身も蓋もない「現実」ではある.だがルイ・リュミエールによる映像には.いわば「自らが現実そのものになる現実」が映っていた.「映る」という語の現代とはまったく異なる意味において,その剝きだしの「現実」の身も蓋もなさは,映画が映画化する直前の刹那の光芒として投射されたのだったが,それは「映画史」によって時を移さずして覆い隠されざるをえない.そしてこの「現実」こそを取り戻さんとする艱難辛苦の「映画史」もまた確実に存在するのであって,そのなかに黒沢清の名が刻まれていることは言うまでもあるまい.後述するように,黒沢は「別の何かをつけ加え」られた「現実」を積極的に受け入れるとともに,「どんな形容詞も張りついていない」ことの徹底としての〈廃墟〉を地上に解き放つ.それらは剝きだしの「現実」を別の仕方で取り戻す実践に僅かのずれもなく重なり合うことになるだろう).「映画の原理」と「世界の原理」との熾烈な鬩ぎ合いそれ自体が「もう一つの現実」なのだから,「溶解」=「ディゾルヴ」は「類似」を原理とすることなく〈幻影〉化と同時に引き起こされている.〈幻影〉化とは,「現実」との/による「類似」それ自体の絶え間のない差異化のプロセスであり,それは「宙吊り」のままに身も蓋もない「類似」の不確実性によって執拗に引き裂かれつづけるしかない──その裂け目こそが〈地獄〉を召喚する,『CURE』のエンドロールにおける不可視の亀裂のように.〈幻影〉(「映画の原理」)は,「現実」との/による「類似」という敵の武器を取り,みずからの傷口を転用することで闘う.「現実」を〈地獄〉の劫火に焼べてしまうのだ(〈地獄〉を召喚する悪意の──もしくは過誤の──プロセスは,つねにそれとは逆の方向からも捉えうる.すなわち〈地獄〉の識別不可能性を所与とした上で,その死の〈大地〉からの距離を確保すべく「この世界と自らの絆を『信頼』」し「天と地の間に『中間の高さ』を作り出」すことによって,「言葉」ほどには及ばぬ〈幻影〉=「映画の原理」もまた「純然たる『仮構=作り話』として」,「叫び」として生き延びようとする危ういプロセスである.引き裂かれる「叫び」としての〈幻影〉=「映画の原理」.先に触れたように,『叫』における幽霊の「叫び」は無根拠であるがゆえに引き裂かれ,引き裂かれることだけを根拠に「あなただけ許」す,のだった.「許し」とは,踠き苦しむ狂乱のなかで掴み取られた「結合」である.だからそれ以外のすべては,死の〈大地=海〉に沈められたままに終わることにもなる[無差別の「呪い」としての「だから皆も死んでください」].「そのため死者たちはいつも溺死者なのである.(…)記憶のあらゆる広がりのむこうには,それらをかきまぜる波の音があり,一つの絶対を形づくる内部のあの死があり,それをまぬかれえたものは,そこから復活するということを理解しなくてはならない」[『シネマ2*時間イメージ』,二八九頁.強調引用者].同様に,ゴダールによる内在的な「結合」を,〈大地〉の識別不可能性から任意のユニットを「類似」の実感において藁をも掴む思いで見境なく救出する試みとして考えることはできないか.たとえそこでなされる「結合」が「ファシズム」のイメージをめぐるものであっても,〈地獄〉へと没し去ることよりかは「救い」がある.引き裂かれる「信」としての「類似」=〈幻影〉.ドゥルーズは,現代映画における世界への「信」の特権的事例としてゴダールの映画を捉えようとする.内在的な根拠が不在のなかで「結合」は「信」によってしかなされない,と.平倉が指摘するように,たしかにドゥルーズは「類似」を差し置いて「信」による「結合」について語ってはいる.そしてゴダールの方法において重要なのは「結合」ではなく,「一つのイメージが与えられているとき,二つのイメージの間に間隙を導入するような別のイメージを選択すること」[二五一頁.強調引用者]だと言ってもいる.還元しがたい「差異」の「復活」は,「間隙」に吹き荒れる外部の空虚なる嵐から引き離されることで産出される.つまり「間隙化」は「結合」に優先するのであって,「結合」が「間隙を導入する」のはそれに従う限りでのものでしかない.「結合」は全体ではない.仮にそうなれば二つの連結されたイメージの間にのみ「間隙」があるということになり,「結合」が「間隙」に優先することになる.そうではない.二つのイメージが弁証法的に結合し全体を止揚するのではない.「全体,それは外部である」(二五〇頁).「外」における〈大地〉から「復活」する「差異」を担う「間隙」,その限りで「間隙」を担う離接的な「結合」,そして「結合」を担う「信」.「信」によって「間隙」こそが導入されねばならない──「類似」によってではなく.何故に,ドゥルーズにとって「類似」は重要ではないのか.こういうことだ.「間隙」が無惨にも押し流された〈大地〉の奔流において,「信」に貫かれた「仮構=作り話」としての「類似」がイメージのユニットを「復活」させる.たとえそこに明白な形態的類似が浮上しており「間隙」を覆い隠しているにせよ,そもそもこのプロセス全体が,イメージの「差異」を「復活」せしめるべく穿たれねばならない「間隙」のためのものとしてある.「類似」は「必然」でも「内在的原理」でもない.「偽なるものの力能」を逆手に取ることで,「間隙」を見いだすためにのみ「類似」は内在的に転用されたのである.そのプロセスから見れば「類似」は副作用・副産物なのだ.「類似」や「結合」が重要なのではない,ゴダールがそれを「原理」であると確「信」するときの「信」こそを救いだし,そのプロセスの先に「間隙」が見いだされることが何にも増して重要である──このように,敗北を必定とされた〈地獄〉の錯乱的な想起のなかから「手」によって掴み取られる僅かな「類似」の縁どりによる手落ちの救出劇としてゴダールの「結合」を捉えるとき,「類似」は原理ではなくよすがに,「手によって見ること」の「祈り」に限りなく近づく.つまりは「信」に.それはドゥルーズを批判して平倉が言うような,内在的な根拠[「正しさ」]の不在をフィルムのマテリアルな「手による繫ぎ」[『ゴダール的方法』,四九頁]の外在性へと繰り上げることではない.四二-五〇頁参照.内在的な原理としての「類似」を「否認」し外在的な世界への「信」によって「結合」を導くのではなく,内在的な「類似」を貫く「信」によって辛うじて「結合」を導くドゥルーズ=ゴダールの側に立つことで,「復活」のための「類似」による〈地獄〉の召喚を,〈地獄〉からの「復活」のための「類似」の転用としても捉えることができるようになる.こうしたプロセスの進行方向の違いは,どちらが正しいということではないだろう.だが,オーソン・ウェルズの分析においてはイメージが「偽なるものの力能」のなかで相互間の変容をなし崩しに展開する場面を認めているドゥルーズが,ゴダールにおいてはそれを見ようとしないことには理由がある.そしてこのことは,「ゴダールの編集が,死と救済が可逆的に反転しうる不確定な場そのものを問題化していること」[二三六頁]や,黒沢清の作品における〈幻影〉と〈地獄〉の配分の度合いを考える上でも重要な区別であるように思われる).無論,作品においてつねにこのプロセスが首尾よく完遂されるとは限らない.「類似」の転用とは「現実」の不確実性に曝されることであり,〈幻影〉化の操作によって生じる「もう一つの現実」=「別の生」は,したがってフリードリヒ・ニーチェが肯定してみせた「偶然の必然」のもとに「博打の結果」(『定本 夜戦と永遠』上巻,四四七頁)として収束するしかない.それは「間隙を穿つ一つの外の浸入とともに実現される.まさに賽の一擲としての,特異性の放射としての,〈外の思考〉」(ジル・ドゥルーズ「ミシェル・フーコーの基本的概念について」『狂人の二つの体制1983-1995』宇野邦一他訳,河出書房新社,二〇〇四年,八五頁)の到来が,引き裂かれつつある〈幻影〉と「現実」の「間隙」に打ち寄せ,「現実」へと嵌入する.「全体,それは外部である」.思考不可能にして想起不可能な〈大地〉の嵐が吹き荒れる「外」の力の絶えざる浸入,その「賽の一擲」により突如として〈地獄〉に変換された「現実」は,こうして〈幻影〉の引き裂かれた膜とともに「もう一つの現実」=「結合」を「偶然の必然」として新たに創出するのだ.映画におけるフィクションでしかありえない「解」の「正しさ」は,〈幻影〉を脅かす〈地獄〉の感覚的強度によってもたらされる.そして,〈地獄〉の力能は〈幻影〉化によって不確実にもたらされるしかない.操作における未決定の「宙吊り」において「もう一つの現実」=「別の生」を待つこと──フィクショナルであるがゆえに引き裂かれ,引き裂かれることを通じて結果的に「正しさ」は生じることになる.楽観主義がそれに引き裂かれることにこそ存している悲観主義.『大いなる幻影』で思いがけず女の働く郵便局に押し入った男の不確実性は,女によって受付窓口のビニール・カーテン=〈幻影〉の裂け目から「ここ」へと取り込まれるのであり,それを転用することで得られるものは,新たな「ここ」と消えゆく男の突如たる顕現,すなわち「もう一つの現実」=「別の生」の存在論的根拠=「正しさ」である.ゴダールは,諸要素の結合可能性について「かけ離れていて,かつ正しい」(ピエール・ルヴェルティ)方法でなされなくてはならないと言う.「かけ離れていて,かつ真実であるほど,イメージは強力になる.そしてより多くの感情的な力を発揮する」(『ゴダールのリア王』.ルヴェルティの引用は『パッション』[一九八二],『JLG/自画像』[一九九五],『映画史』においても繰り返される).外在的な「正義 justice」に裏打ちされない「ただの juste」映像(シミュラクル)の「正しい juste」結合の真実性を証し立てるのは,ゴダールにおいては「類似」であった.黒沢による形式的な実践においては,かけ離れた〈幻影〉──「ずれ」の運動による──が〈地獄〉と結合することによって不確実に「正しさ」は代補されるのである.ある場所からかけ離れることで逆説的にその場所の本質へと辿り着く運動を,黒沢清の作品について別の側面から指摘することができる.『復讐 消えない傷痕』(一九九六)以降,黒沢は古典的な──七〇年代アメリカ映画の──「ジャンル」の桎梏を取り払うことを厭わぬスタイルへ移行したと言われる.『Helpless』(青山真治,一九九六)や『おかえり』(篠崎誠,一九九六)の影響もあって,「今の日本にある日常的な空間や普通の人間の生活を積極的に取り込んだ」(黒沢清インタヴュー『映画秘宝』二一号,二〇〇一年三月,七五頁.強調引用者)のだと語られてもいる.そして「ジャンル」への忠誠を示すことによってのみ「映画の原理」に加担することが,黒沢にとってすでに困難なものとなっていた時期でもある(「彼ら[青山や篠崎]は,映画にはジャンルがあることは充分わかりつつ,海外の人は今どきの日本映画にそんなものを望んでない,ましてやアメリカ映画の古典的なスタイルなど求めてないことをちゃんと知っていた」[七四-七五頁].一九八八年からの伊丹プロダクションならびに東宝株式会社との確執以後,あるいは一九九一年の『地獄の警備員』以後の「不遇の時代」は一九九四年まで続く).「ジャンル」の枠を取り払うことは,〈幻影〉を排し「現実」を描くということを一切意味しない.「映画の原理」なきところに「世界の原理」は成立しない.そうではなくて,「日常性」は「映画の原理」の発動形態として,すなわち〈幻影〉として描きうるということをこの時期の黒沢の作品は発見したのだ.「日常性」とは,「映画の原理」と「世界の原理」の安易な妥協の産物でしかない「人間ドラマ」に代わって,「現実」を〈幻影〉=「映画の原理」と「ディゾルヴ」させる一つの方策である.混濁した「現実」を完全に統御することのできない機械の産物である「映画」が,「ジャンル」という「映画の原理」による固定作用の手綱を引き締めることなしに「世界の原理」と相対することが可能となったのである(「ホラー」に「日常性」[実話の断片性]を導入する「心霊実話[テイスト]」を,小中千昭,鶴田法男,高橋洋らとともに同時期の黒沢が関西テレビ版の短編ドラマ作品『学校の怪談』[一九九四,一九九七,一九九八,二〇〇一]で採用しはじめるのはゆえなきことではない.たとえば次を参照.高橋洋・鶴田法男・黒沢清「なにか,ヤバイものが写っている…」『恐怖の対談──映画のもっとこわい話』,青土社,二〇〇八年,九頁以下).だが,これは「映画」にとっての「毒」でもあった.「日常性」の導入は,「現実」との/による「類似」を積極的なかたちでもたらすことにならざるをえない.事実,この頃より黒沢は「現実」の不確実性──「別の何かをつけ加え」られた「現実」──を映画の構成要素として自覚的に取り込みはじめる(佐々木浩久が自身のブログで明かしている黒沢のスタイルの転換もまた同じ流れにあると考えられる.「『スイートホーム』の現場以降,黒沢さんはこのコンテ至上主義をやめて,1カットの長回しの中でどれだけ役者を動かし得るかと言うことに方針を転換し始めた」[佐々木浩久「黒沢清の数学的な演出術」,二〇〇九年四月.http://hirobaystars.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-f72e.html ]).次のインタヴューで語られているのは映画やカメラの根本的な特性についてであると同時に,それを超えた何か透徹した覚悟のようなものだ.「少なくとも今日本で,実写で映画を作ろうとした場合,自分が身のまわりで感じていることを全く入れないということは不可能だと思う.つまりそこには自分自身ではないにしろある人間が映っていて,いやでも東京の街とかが映っている.(…)今日本で撮られてるほとんどの映画は,その辺で撮影してるわけです,だいたい似たような人を使って.そして,例えば役所広司さんとお仕事をする.(…)そうすると当然映像に役所広司さんが日常的に考えていること,感じていることなどが,ある反応として記録されるわけです.僕だけでない役所さんの感覚が入ってくる.映画はそのようなものだと僕は考えていますから,いっさい拒否しては撮れない.むしろそれがないと撮りようがない.逆にさらに言うと,そういうものがもともと頭で作り上げた映画の構造を壊していくこともある.そして僕は,壊れてもかまわないと思っているわけです.(…)僕はもちろんフィクションを撮っていますが,役所広司さんの,ある意味でドキュメンタリーを撮っている.そしてもちろん僕自身は映りませんが,僕自身がそのときそのときに考えたこと感じたことは自ずと何かに反映してるし,また反映させるべきだろうと思います.混乱していたら混乱したまま出すしかない./カメラっていうのはそういうものだということです」(黒沢清インタヴュー『Spotting』一〇号,五七-五八頁.強調引用者).それは「映画作りのマゾヒスティックな快楽のひとつだと」(「『降霊』についての質問に対する答え」『映像のカリスマ』,三二二頁.強調引用者)まで彼は言うのだ.注意する必要がある.「日常性」とは「現実」の不確実性を吸い上げることで転用する装置として機能する.しかしそれは「風俗」を中心とした社会的事象を取り入れることではない.『ニンゲン合格』には主人公が性風俗店に連れて行かれるシーンが確かにありはするが,店に入るカットは適切に抜け落ちていた.そこでは居酒屋の奥に放置されたかに見えるパンフォーカスの無表情なカメラによって,閉じられていない引き戸を介してただその向こうに続くネオンの看板の並ぶ路地裏が切り取られていたにすぎず,またその路地裏もどこかセットのような佇まいで時代すら定かでない背景として漠然と沈み込んでいた(とりわけ『ニンゲン合格』には窓越しもしくは扉越しに内部や外部を切り取るショットが頻出する.フレームの内部にもう一つのフレームを嵌め込むことで得られる「現実」について,黒沢は次のように語っている.「何かが起きているのをどのように見せるかというときに,[…]ストーリーとは何の関係もない人がふと見ると,このように見えたという撮りかたもある.それは,見えた,写ったというキャメラ本来のぶっきらぼうなありかたなんです.映画の場合,普通はキャメラで撮影しているということをなるべく忘れて貰うように工夫しますけど,僕はそこにひょいと,自分が撮影しているというリアリティを入れたくなるんです.吉井家の人たちが集まって食事をしていますといっても,それは嘘なわけですよ.俳優さんたちが演技してるんですから.でもそれをひょいと見たら,このように見えた.ひとつの嘘でも,撮っている僕としてはひとつの真実が感じられた」[黒沢清インタヴュー『ニンゲン合格』劇場用パンフレット,二四頁.強調引用者].初めに語られているのは,カメラの映しだす身も蓋もない「現実」のある種の偶然性の形式的な仮構であるように思える.だが後半の「自分が撮影しているというリアリティ」とは,「もう一つのフレーム」を介して能動的に覗き込まれた「現実」の「リアリティ」のことではないだろうか.そこでも偶然性は重要な要素ではあるが,さらに踏み込んだ能動性によって逆に巻き込まれてしまうような偶然性こそが語られているのではないか.たとえばジオラマやミニチュア,建築模型の小さな開口部を覗き込むときに,周囲が後退していく没入のなかで,拡大を維持しながら見つづけることを通じて対象の存在を際どい均衡で成り立たせているような,奇妙な「現実感」へと不意に巻き込まれてしまうことがある.「もう一つのフレーム」によって隔てられることの浮遊感が,局限された「現実」の稠密を思いがけず実感することの偶然性と重なり合うときに,黒沢の言う「ひとつの真実が感じられ」るのだとすれば,それはミニチュアにおける奇妙な「現実感」に通底するものだろう.あるいは空洞化した部屋の内部が写された寺田真由美のモノクローム写真が,その実虚構性のフレームとしてのミニチュア模型であることによって,薄暗い壁面の手触りと光を纏うカーテンの膨らみに感傷とは無縁のただならぬ〈出来事〉の予感を覚えることとも.いずれにせよ,このような演出は,〈幻影〉化のプロセスのなかで「現実」[〈地獄〉]の感覚的強度をもたらす操作とパラレルなものと思われる).よく知られるように,黒沢は一貫して「風俗」一般の記号性を画面から排除し,またはずらし,その多くを東京の郊外や近郊を舞台として作品を作り上げてきたのだった(こうした社会的「風俗」を排除する操作は,彼の作品における「性」の排除と連動しているようにも見える.もちろんそれらは見据えられた──見据えずにはおれない──ものに含まれる夾雑物ゆえに「排除」されるのであって,その操作だけが妄りに遂行されつづけるのではないし,その結果として残ったものが消極的に撮られるのでもない.見据えられたものとは,梅本洋一が二〇一一年三月一一日の震災以前から打ちつづいてきたと書く「事後」の風景,「固有名の必然」が失われた〈廃墟〉のごとき「困難な場所」そのもののことでもあるだろう.「困難な場所とは,文字通りの,場所,つまり,日本映画が撮影しなければならない日本という場所の困難さだ」(「日本映画の風景をめぐる状況について」).なお,タイトルに「トウキョウ」を入れるという制作会社からの要望に関連して,『トウキョウソナタ』では雑踏などを含む「東京の風景」を初めて物語とは関係なく挿入したという.黒沢清「『トウキョウソナタ』黒沢清監督インタビュー」,二〇〇八年九月.http://www.hmv.co.jp/news/article/808260070 ).その象徴が「風俗」から場所的・時間的にもっとも離れた──ずらされた──建築物としての「廃墟」である.彼は実際の風化した「廃墟」を舞台とするにとどまらず,あらゆる場所に「廃墟」を重ね合わせ,ようするに〈廃墟〉化=〈幻影〉化することによって「風俗」の排除を徹底させる(『アカルイミライ』以降,その態度を軟化させるようなスタイルの変化が作品の要素として現れてくることは見過ごせない事実であり,黒沢による「現実」の不確実性の取り込みが「風俗」すらをも対象としていく新たな段階に移行したことは明白であるものの,ここではそうした展開の運動性を精確に剔抉するためにも,何より原理的な形式を素描することを優先させるべく一先ずは措くとしよう.『アカルイミライ』に関する次のインタヴューでの発言を参照.「風俗的な場所を選んだことに関しては,これは生理的に避けたいという思いがかつてはありましたけど,極端に避ける必要はない,というか,避けようがないとちょっと前から割り切るようになりました.(…)今は,喫茶店でも良い,繁華街でも良い,原宿でも三宿でも構わない.三年後に見たら,ある時代を感じさせるかもしれないですが,そうした一時の流行のようなものでも,映画でとらえてしまうとちょっとした普遍性を持つのではないか,実際に肌で感じるよりは,映画でとらえることによって普遍性を勝ち取るのではないかという気がしています」[黒沢清インタヴュー「世界すべてを許す」,五五頁]).時代性を刻み込みもするこうした記号(化されざるをえないもの)の生々しい「ディテール」なるものは,われわれのよく知る「一般的な現実」の構造へと作品を落とし込み,そこからなにがしかの「意味」を読み取らせることで「考察させる」ための弾幕になりうる.少なくとも黒沢清にとって映画とは「もう一つの現実」を創出するものであり,ものでしかない.生々しい「意味」を超えた,あるいはそれに先行する「現実」そのものでなければならない.ゆえにそれは〈幻影〉化による「博打の結果」としてなされる以外にはない.〈幻影〉化による排除は,その徹底性は異なるにせよ「ジャンル」からの遊離とよく似た軌道を描いている.「世界の原理」の「風俗」と「映画の原理」の「ジャンル」からともに抜けだした場所に〈廃墟〉=〈幻影〉はたゆたいつつ実在しているのだ.そしてこの地点においてこそ「現実」の不確実性は,その「現実」性(「リアリティ」)を純化したものとして取り込まれることになる──〈幻影〉を引き裂き〈地獄〉に裨益するもの,すなわち「類似」の転用として.カメラが記録する身も蓋もない光景は,「現実からある種の意味をはぎ取りもする,別の何かをつけ加えもする」.黒沢は「ある種の意味をはぎ取」られた〈廃墟〉において「別の何かをつけ加え」られた「現実」を吸い上げる.「どうやれば形容詞が撮れるのか」と書いた後彼はこう続ける.「『CURE』という映画で,私は登場するほとんどの人物たちの心が,どこか空っぽになっている感じを出したいと考えた.もちろん,人の心そのものは写るはずもない.だから私は,何となく空っぽな感じのする場所をロケ場所に選ぶことにした.(…)選ばれた場所は月島にある水産試験場の跡地だ.家具や機械がみな取り去られ,今やただの漠然とした空間となってしまったその室内は,立つと確かに空っぽな感じがする,気が滅入るような場所だ.しかし,それは果してフィルムに写るのかどうか./悩んだあげく私がとった方法はこうだ.まずだだっ広い室内にごく普通のベッド,椅子,机などを持ち込む.そしてそれらを,うんと離してぽつぽつと配置する.俳優たちにはこの場所を使ってごく普通の演技をしてもらう.ただ,ベッドと机は10㍍も離れているから,ちょっと物を取りにいくだけでその距離を歩かねばならない.でも努めて,あたかもそれがごく普通の生活であるかのように何気なく演じてもらった.結果は,脚本では特に何でもなかったシーンが,台詞と台詞のあいだが異様に引き延ばされ,人々がただ黙々と10㍍の距離を歩き回っているといった印象の画面になった」(「CURE・ロケ地再訪」,三〇二頁.強調引用者).〈幻影〉化され〈幽霊〉化した〈廃墟〉の内部空間に極端な距離を置いて配置された誰も座らぬ椅子もまた,世界最小の〈廃墟〉となる.おそらくは人も.カメラには「形容詞」が映らない.だが「空っぽ」であることの「形容詞」は,「形容詞」の不在として,マテリアルそのものとして映すことができる.「時としてそれは能面に似る.そこにはどんな形容詞も張りついていないがゆえに,それを見る人の心にある時強烈な印象を刻み込む.無数の形容詞がそこに見える」(三〇二頁.強調引用者).それはもはや「形容詞」ではなく,空間を凶しい色調に染め上げる「物質の悪意」,「現実」から変換された〈地獄〉に触れる何ものかだ(後に触れるが,斎藤環は,黒沢清の作品においては登場人物の排除された内面が観客に「転移」すると論じている.斎藤環「黒沢清──ホラーの自己生成」『STUDIO VOICE』二七二号,一九九八年八月,六三頁参照.「風俗」の排除と「映画」そのものの「現実」化との連動性に関わるものとして,むしろ「映画」の後に「風俗」を中心とした社会的事象は追随し群れ集まることになる,という言説が存在する.どこまで本気かは措くとして,次の対談をまずは引こう.「黒沢:[…]九月一一日に[トロント映画祭で]『回路』を見せ終わった瞬間,いきなり恐るべき二一世紀が到来したと直観しました.昔からよく言われていた,映画が現実を呼び寄せてしまうということが,我が身にも起こったんでしょうか./蓮實:二〇〇一年九月一一日,多くの人がハリウッド映画みたいだとふと漏らしたんですが,実は黒沢清の映画そっくりだというべきではないかと思っていました」[蓮實重彦・黒沢清「21世紀は黒沢清を見なければわからない」,黒沢清『映画のこわい話 黒沢清対談集』,青土社,二〇〇七年,二三七頁.強調引用者].『女子大生・恥ずかしゼミナール』[一九八四]に「にっかつロマンポルノ失格の烙印を押されて」[「幽霊フィルムの逆襲」『映像のカリスマ 増補改訂版』,九六頁]配給元から公開を拒否され,あるいは『スウィートホーム』の撮影からヴィデオ化にまで至る確執が訴訟へと発展するという事態は,非現実的な物語とされた『CURE』が地下鉄サリン事件によって時局的にすぎるとの理由で企画の停滞を余儀なくされ,あるいはクランクアップ直後に起きた神戸連続児童殺傷事件のために公開が延期されるという事態とは異なっている──その後の「癒し系」ブームや一九九〇年に「九〇年代はカリスマの時代ということか」[「企画会議『カリスマ』」『映像のカリスマ 増補改訂版』,二五〇頁]と「予言」されていた『カリスマ』が公開されるに際しての「カリスマ」ブームの拡散に至っては.ましてや『回路』の墜落する旅客機が不意に上空に現われビルから煙が立ち昇る映像が二〇〇一年九月一一日前日のニューヨークからもさほど遠くはない場所で上映されたがゆえに,すでに書かれていた『アカルイミライ』の脚本が「本格的なテロリストの話」[「21世紀は黒沢清を見なければわからない」,二四一頁]から書き直されねばならなくなり,あるいは数年後に完成したその作品と呼応するかのように都内の河川にクラゲが大量発生するといった事態とはまったく異なっている.あまつさえ『トウキョウソナタ』の日本での公開が遅れているあいだに世界金融危機が勃発し数月後の「年越し派遣村」がメディアを賑わせたがために現実との「リアリティ」の差を云々されることにもなり,あるいは「来ねえかなあ,大地震」という台詞が『叫』(「このあいだみたいな地震が後何回か続いたら,この辺全部,皆元の海に戻るんじゃないの」「でも皆,案外それを望んでんのかもね」)に引き続いて何ごとかを待望しながら発せられるといった事態とも,やはり──こうした事象は,言うまでもなくそのような偏った見方においてのみ浮上してくる碌でもない符牒でしかないし,事後予言じみた解釈遊びに熱を上げることは無益であるばかりか有害ですらあるだろう.しかし「映画」が「もう一つの現実」である以上,まさにそのような符牒において特権的に語られもする作品群においてこそ「風俗」を排除する操作が自覚的に行なわれてきたという事実に関しては,留意しておくべきものがあるのではと思う.黒沢清『黒沢清の映画術』,新潮社,二〇〇六年,および「21世紀は黒沢清を見なければわからない」,二三六-二三七頁参照.ところで,蓮實重彦は二〇〇一年九月一一日にアメリカで起きたテロ事件についてのインタヴュー[「これは戦争ではない」『週間読書人』二〇〇二年一月二五日号]において,そのニュース映像が「映画」にはけっして似ておらず,なぜなら主役の顔が,ようするに人間が出てこないからだと述べているのは示唆的である.インタヴュー記事のこの箇所を受けて,大澤真幸は,仮にニュース映像が「映画」と同質の衝撃を与えるものならばそれは虚構の問題にすぎないことになると言い,続けてこう指摘している.「あの出来事は,人間の映像を拒否していて,そういう意味で,映画的ではないわけです.あの事件の意味に見合う人間を撮ろうとしても,うまく撮れないわけです」[大澤真幸,東浩紀・大澤真幸『自由を考える──9・11以降の現代思想』,NHKブックス,二〇〇三年,二四頁].世界から人間が消え去っていく『回路』を初めとした黒沢清の映画は,このような意味において「映画的ではない」と蓮實は言っていることにならないか).高橋洋は,みずから「映画の魔」と呼ぶ〈地獄〉が「現実」の不確実性との極限の関係において召喚されることの(不)可能性について書いている.「映画は,それを作ろうとする人間の意図をことごとくくつがえす裏切りの場においてしか自らを開示しない,トコトン非常識な逆説の連続なのである.『魔』はそこに介在する.つまりそれは,映画の『外側』からやってくる何かなのだ.見る者を,いや作る者をも殲滅させることすらあり得る,激しい『外側』から.原爆の閃光が残した『人影』をめぐって,長谷川正人氏が原子爆弾を巨大なキャメラにたとえたとき[『映像という神秘と快楽』],その指摘に触れた映画人の多くが深い感銘を受けたのはそれ故である.『外側』にいる何ものかは自分たちの名前を叫び続けている.その声は決して聞こえないのだが,私たちは懸命に聞き取ろうとしたあげく,結果として映画を作っている.『外側』の何ものかが強いるのは,ただひたすらな『無根拠』に触れ続けることであり,私たちはただただそれに耐えるしかない」(高橋洋「映画の魔」『映画の魔』,青土社,二〇〇四年,九-一〇頁.強調引用者).強烈な「光」によって人間を消滅させる「映画」の存在が示唆されることで,「人影」はわれわれをして『木霊』や『回路』における「黒い染み」を想起せしめるものの,確認すべきは,〈廃墟〉における「形容詞」の不在のみによっては「魔」は召喚されることがないということだろう.それは映画製作における混濁した「現実」の不確実性によって媒介されなくてはならない.「形容詞」が排除される〈幻影〉化の操作が「宙吊り」のまま引き裂かれるための「現実」が,その物質性が必要なのだ.そして〈幻影〉が「現実」によって引き裂かれつづけるものであるゆえに,実際のあからさまな「廃墟」に比して,「現実」からの〈幻影〉化が色濃くなされる非-廃墟における〈廃墟〉の方が,その〈幻影〉の「引き裂き」(ディディ=ユベルマン)がより際立つのもまたゆえなしとしない.〈地獄〉を中継する「貯水池」としての「廃墟」を起点として,伝播する「映画の魔」がフレームに収まる地上の物質空間をことごとく〈廃墟〉化していく.しかしそれにしても,そのとき「映画」はどうなっているのか,という当然の疑問が浮かぶ.その「覇権闘争」の行方は.「現実」を積極的に利用することの兵站を開く「日常性」は,ある種の「通俗性」──「現実」からの要請としての,それへの妥協としての──に通じてもいる.北小路隆志は次のように書いている.「黒沢はカメラの不確実性に苛立ち,完璧な制御という見果てぬ夢に向けて映画を撮る.しかし,彼も熟知するように,それはいつも不可能性に向けた賭けでしかないだろう.(…)通俗性を厭わない一方で,映画は映画であるというトートロジーに踏み止まる禁欲主義」(北小路隆志「音楽に憑かれた映画たち」『InterCommunication』三七号,二〇〇一年七月,八三頁.強調引用者).「映画は映画である」とは,「映画の原理」の枢軸におけるもっとも純化された言明にほかならない.箍の外れた「映画」は,それが「映画」であるという原理のみを存在理由としつつひたすらに瀰漫してゆく.それゆえ「映画の原理」に「日常性」という「毒」を注入することは,「何を撮っても映画は成立する」というかたちで「映画」の自己言及的な運動(「映画は映画である」)に拍車をかけることになる(「遅くみても80年代以降,映画は確かに自己言及的な世界に突入した」[八三頁]).この運動は,「映画」を緩慢に死へと向かわせるだろう.だから,「映画における『形式化』の試み」(八三頁)が必要であり,畢竟するに「ジャンル」が要請されなくてはならないのだと北小路は言う.「もしも何を撮っても映画が成立するとすれば,それは何も撮らなくてもいいということに等しい.だから,ある種の『禁止』を自身に課さなければならない」(八三頁).しかしこれは逆なのだ.「ジャンル」という「禁止」の手綱を緩めることで「映画の原理」が「日常性」を手にしたからこそ,「映画」はその自己言及の運動性を自壊への緩やかな悪循環へと追いやられるに至ったのである.そのなかで──では,「現実」への透徹した覚悟はいかにしてもたらされるのだろうか,それでもなお「映画は映画であるというトートロジーに踏み止まる」にはどうすればいいのか──ここに,黒沢清の形式性が確立することになる余地があったのである.すなわち,〈幻影〉=「日常性」は〈地獄〉を召喚する回路を発動せしめる形式において引き裂かれるほかはない.〈地獄〉の力能を巻き込むことで,〈幻影〉=「日常性」は引き裂かれながら「正しさ」を生き延びるのだ.「映画における『形式化』の試み」は確かに必要ではあった.それは「禁止」によって自壊を免れることではないし,もはや滅びの道を緩慢に歩み進むことでもない.「映画」の〈幽霊〉化.それが,「映画の原理と世界の原理との壮絶な覇権闘争」を新たに形式化する「映画=世界」の法則であり,後戻りのできない「運命」である.「黒沢:(…)気がつくとこうなってしまっていると知る時間の流れには,敢えて運命という言葉を使ってしまいますが,それがあって今があると日々感じてはいます.(…)起こっている出来事に反応する俳優の芝居なんかも,露骨に運命という言葉は使わないけど,なんか運命的な反応として演じてもらいたいなというのはありますね.事件はなぜかわからないけど起こった,時の流れはそういうことだったのかという感じには見えたいよねという思いはあります./青山:黒沢さんがおっしゃっているその『運命』というのを僕は『歴史』と呼んでいるような気がします.つまり,それらは両方ともシステムだと思うんです.こちらが受け取る受け取らないにかかわらず在る,そのシステムが作動する様を見ているんだという気がするんです.(…)ただ運命であると同時にシステムである限り必然なのだと.その両側面があるということだと思うんですね.システムであることを忘れて運命だけを言った時に立ち現れる偶然のみを見ることはシニズムであって,それは危険だし,不正義である,と思っているんですけど」(青山真治・黒沢清「歴史としての〈情緒〉」『映画のこわい話 黒沢清対談集』,六二-六四頁.強調引用者).「運命」も「歴史」も偶然であり,「システムである限り必然」である.ゆえに「個を蝕む社会のシステムに抗」って生きることの「運命」もまた一つの「システム」なのだということにもなる──何かがおかしい.注意しよう.「必然」とは現状追認の衰弱した思考態度とは何の関係もない.青山真治が「歴史」「システム」を「運命」と結びつけることで,「運命」の根幹に据えられた未来に関わるもっとも枢要な「抵抗」の運動性がここでは見えづらくなっている.「歴史」も「システム」も未来に開かれているにもかかわらず,「システム」であるからこそ変えうるという視点が見損なわれ語り損なわれている.その変え方,「抵抗」の戦術において「偶然」は「必然」に転用しうるという視点が.「こちらが受け取る受け取らないにかかわらず在る」「運命」などというものはありえない.青山自身も重々に承知の上とはいえ,「偶然」とともにある「必然」だけを強調することで「正義」とやらの側に立っているとは思わないことだ.それだけでは浅ましい順応主義の懦弱な思考停止に陥りかねない.ある事象に「歴史」を見るか「運命」を見るか.どちらにせよその事象が「システム」であることの指摘に終始するのではなく,その「システム」における「運命」の闘争こそを救いださなくてはならなかったのではないか.なぜなら,「システム」を「偶然の必然」とすることで引き裂かれてしまう場所に,「運命」はその「抵抗」の拠点を持つのだから.複合的に組織される権力の絡み合いを「禁止の法」へと等質的に還元することを前提とする古くさい慣習に疑問を持たず,いまだ支配と被支配という二項構造の政治的常套に,もしくは構造主義的な共同体理解の紋切り型に囚われているようにも多少見えはする青山にとっての「歴史」とは別の意味において,と言っておくべきだろうが,黒沢清にとっての「運命」とは,個体が「偶然」に引き裂かれることの「必然」における「抵抗」であり,既存のそれとは異なる「システム」に図らずも配置された個体がその「偶然」に引き裂かれることへの「抵抗」の「必然」である.その場での「逃走」.それはまた「システム」の「外」への絶え間のない漏洩でもあるはずだ.「配管を破裂させるように,ひとつのシステムを逃走させること」.その行く末にさらなる「システム」が待ち受けていることもまた当然あるにせよ,われわれは,「逃走」を単なる「偶然」や「必然」へと,その運動すら「システム」へと還元する挙措が知らず知らずに覆い隠してしまうような運動の力線以外の何に賭けるというのか.政治,と黒沢は言う.「以前からあり,今後もおそらくあり続けるだろうというただそれだけの理由で,我々に白か黒かの選択を迫り,同時に白を黒と言いくるめもするある作用,それが私がイメージする“政治”なるものにかなり近いような気がする.そして,経済には見捨てられ,文化からもとり残された映画は,最後にこの作用だけを振りかざして生き延びてゆくのかもしれない.もしそうなら,私は大いなる感動と恐怖をもってこの“政治”を受入れよう」(「映画と政治」『映画はおそろしい』,七三-七四頁.強調引用者).実に,あまりにも清冽にして泰然たる覚悟である.受け入れることによる異議申し立ての戦端の幕が切って落とされ,爾来「現実」の不確実性をめぐるさまざまな試行錯誤が「政治」のもとに展開されることになる.青山真治は「しかし,敵の銃を奪って撃つこともできる」と題された一節で,この「政治」を「制度」と読み替える.「これほど暗く猛々しい復讐があるか.氏はただ『制度』を冷静に見つめ,解読している,つまり『内面化』しているに過ぎないが,完全犯罪者の手口とはすべからくそうである.八〇年代,氏は白を白と断固言い続けたがゆえに殺されかけた.現在,氏は白を黒と言わざるを得ない状況を涼しい顔で乗り越える.『制度』が白を黒と言うために用意する駆け引きに応じていさえすればいいのだ.所詮,白は誰が見ても白であるのが映画なのだから」(「ヌーヴェルヴァーグ宣言,あるいは余は如何にしてガレル信徒になりしか」『われ映画を発見せり』,二〇頁.強調引用者).またしても「政治」という語の運動性の静的な「制度」への還元が見られはするし,「解読」するだけでは「作用」を巻き込み「敵の銃を奪って撃つ」こともできないのでは云々といった文句がなくはないにせよ,ここで語られているのは,黒沢清が闘争の何たるかを学習し,新たなる戦術を練り直すことで九〇年代の傑作群を準備することにもなる「政治」的で「運命」的な「抵抗」の胎動である.その発端がいかに姑息で瑣末な演出上の一工夫であれ,「運命」=「システム」は一度作動するや世界全土に拡散し尽くすまで誰一人として止めることができず,そのようなものとして不断の「運命」=「抵抗」を生きることになる個体の「政治」=「闘争」もやはり終わることがない.そして「システム」は必ず「偶然の必然」において産みだされるものでなければならない.それはある運動のなかでの間断なき判断によって突如として作動する.扉の隙間を赤い粘着テープで塞ぐだけの「あかずの間」のような呪術的装置の作製もあれば(『回路』.劇中でプリント・アウトされる「あかずの間の作り方」には,「窓を全て塞ぐ」「黒いビニール」「世界に絶望する」などの指示もある),「理科室を四回回って夕方五時五五分に三階トイレの奥から二番目の扉を一三回ノックする」という煩雑な手続きを要するものもありはするが,その儀式の手順は正確に遂行されないことによってこそ「花子さん」を召喚してしまうのであり(『学校の怪談I/花子さん』[一九九四]),反対に「階段下で五芒星の結界防壁を白線で描きトイレの床に薔薇の花とステンレス製品をばら撒いてから扉に鋏を突き刺す」という儀式は,非参加者によって鋏が偶発的に引き抜かれるまで発動することがない(『学校の怪談・物の怪スペシャル/花子さん』[二〇〇一]).どちらにせよ「現実」の不確実性を介することが「システム」の作動条件となっており,それゆえに一度発動されれば停止させる手段もまた与えられてはいない.後者において実際に召喚された「花子さん」はもはやトイレに帰還することはなく,「廃墟」と化した学校から繁華街へ,その向こうに広がる世界へと解き放たれるだろう.「受容エリアがある臨界点に達してさえいれば,どんな方法ででもそれは起こった.たまたまその辺にあるものを組み合わせて,その装置は完成された.(…)どんなに馬鹿げた単純な装置であっても,一旦システムが完成してしまえば嫌でもそれは動きだす.そして固定される.つまり,回路は開かれた」(『回路』).「ごめんね.もう,私にも止められないの」(『木霊』).恐怖映画の作中人物においてすらその「運命的な反応」が悽愴な表情を視線に曝すことはない.どころか,彼らはそこはかとない清々しさを纏う笑みすら湛えてもいる.それは締念を介さぬ楽観主義の,引き裂かれることによる「勝利」なのだ.黒沢は青山真治の『Helpless』について書きながら,〈地獄〉の解放を,そして「世界」を乗り越える「映画の原理」の「勝利」を高らかに宣言する.いわく,「外の世界では,暴力の徒と化したムショ帰りのヤクザがひとり,世界と自分との関係を探って街を彷徨していた.光石研演じるこの崇高なヤクザを,青山真治はまるで哲学者のように描く.見ている内に,私にはだんだん,彼は暴力によって世界を乗り越えようとしているのかもしれないと思えてきた.そして最後,光石研はついに,『仁義の墓場』の渡哲也が,『ソナチネ』のビートたけしが,共にいどんで果たせなかったことをなし遂げる.つまり,彼は世界に勝つのだ.どういう方法で? 世界が彼に向かって取り結ぼうとする最も強力な関係……死……を乗り越えるという方法で.ああ,何という暴力の勝利!」(「映画の暴力を知る者──青山真治『Helpless』」「映画はおそろしい」,一五三頁.強調引用者).一九九六年以降も「ジャンル」を軸に据えた作品が撮られはするものの,それら諸作には不穏なる「日常性」がすでに浸透し染み渡っている.「ジャンル」と「日常性」が斑になった〈幻影〉は,〈地獄〉と重なり合う限りそれに脅かされる「運命」にある.廃屋と植物の混淆によって全体が〈廃墟〉と化した『カリスマ』の森は,「魂」を抜かれた「運命」の受諾者たる主人公だけが横切ることを許されるのであり,呻きながら地を這う植林班のリーダーには「地獄」といった台詞しか残されてはいない.〈地獄〉へ,あるいは統御不能なカメラの不確実性という「現実」(「世界の原理」)へと「ジャンル」(「映画の原理」)の楔が打ち込まれるとき,だからそれは必然的に「軋み」(「音楽に憑かれた映画たち」,八三頁)というノイズを生成してしまう(「現実」とは映画制作に纏わるあらゆる事象を指すが,「ジャンル」のこの「軋み」は,たとえば『スウィートホーム』[一九八八]で「怪奇」という「ジャンル」が「現実」によって撮影中のみならず撮影後に至るまで切り裂かれつづけたという事態とは文脈を異にする.黒沢によるこの大いなる蹉跌は,「日常性」なきところで「現実」の不確実性が映り込むことの端的な「失敗」としてフィルモグラフィのあの位置に今もなお影を落としつづける.いわゆる「スウィートホーム裁判」における一九九五年[一九九九年に判決確定]の東京地裁判決全文は以下のURLから入手できる.http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/ED98FC7D8F8088FC49256A7600272B92.pdf.念のため.次作となるテレビ・ドラマ作品『もだえ苦しむ活字中毒者/地獄の味噌蔵』[一九九〇]では原作における「めぐろ」という編集長が「たみや」に意図的に変更されることで心做しか「伊丹」を彷彿させもしつつ,この人物に自著を読ませるべく男がさまざまな策を弄するもやがて事態は戦争へと発展するという過程に痛ましい裁判を想起させるものがないわけではないし,また請求棄却の判決翌年より「復讐」を中核に据えた作品が連続して撮りはじめられることなどから何ごとかを読み取ることもまったく不可能ではなかろうものの,端的に野暮というよりは,そのような意味での人間的な「作家性」にわれわれは感心を向けることはしない.たとえ黒沢本人が「『いかがわしさ』と『出鱈目さ』を積極的に受け入れようと思う」と宣言し「作家……ああ何と言う不変の匂い立ち込めるまぼろしのような存在」(「人間なんかこわくない」,二六五頁)と書きつけるとき,「人間(中心)主義」的なこの世界そのものに倦んだごときあまりにも人間的な深い嘆息がそこに感じられるのだとしても,「『作家』とはむしろ幽霊的な環境として,一連の連続性や切断に彩られたフィルモグラフィをひとまず暴力的に括弧に入れる装置」(北小路隆志「日本の批評家[後編]」『映画批評のリテラシー』石原陽一郎他編,フィルムアート社,二〇〇一年,一三四頁.強調引用者)でしかないということをここで確認しておく.北小路は,映画が「人間(中心)主義」の攪乱であるという原理を蓮實重彦が日本の映画批評に定着させることで「切断」をもたらしたとし,黒沢は蓮實よりこの「反人間(中心)主義」こそを継承しているのだとも書いている.一三三-一三五頁参照).「ジャンル」を踏み台とした不可能な跳躍──「不可能性に向けた賭け」──と言ってもいい.「ジャンル」は腐蝕した鉄筋のような骨組みと化し,こうして不可避の「軋み」をともないながら異形のものを産む(北小路は「活劇の『幽霊』」を生産する日本の映画作家の一人として黒沢清を挙げている.一三一頁.強調引用者).たとえば『回路』では,「ホラー」という「ジャンル」における「幽霊の怨念」といった復讐譚──「人間ドラマ」──は周到に捨象され代わりに若者たちによる「死」の考察が迫りだしてくることになるのだが,これは〈地獄〉によって「日常性」を介して「ホラー」へと要請されたものなのである.「死とは何か」という問いの存在しない「ホラー」は「ホラー」ではない,と.したがって「幽霊」は端的に「死」の「実例」としてのみ出現する.そして「死」の考察は,「現実」における恐怖とはむしろ「無でありながら死ねないこと」にこそあるという「解」を導出し,「黒い染み」となって永遠に生きること,すなわち生きたまま〈地獄〉に堕ちることが,〈地獄〉に汚染された「世界の原理」の切迫として「ホラー」の名のもとに描かれる(「死ねないこと」と「死を乗り越えること」とは異なる.「生きたまま〈地獄〉に堕ちる」とは,「世界」が取り結ぼうとする絶対的な関係たる「死」を乗り越えることの失敗である.もはや「死」は失敗ではない.黒沢の所属した立教大学の自主映画制作サークル「パロディアス・ユニティ」がゴダールに倣って掲げていた「すべての映画は撮り尽くされた」という標語は,無論「映画」への一つの姿勢を示すものではあるものの,すべてが撮られた「消尽」のうちにある「映画」の側から言うならば,それは「受容エリアがある臨界点に達し」た状況にほかならないだろう.『回路』は,〈大地〉における映画的記憶の錯乱的な想起不可能性が「受容エリア」を超過したがために,「映画の幽霊」が地上を跋扈し見る者を「記憶喪失」に陥れるという物語でもある.そして後述するように,この物語をそのまま──そして執拗に──実践したのがゴダールである).「軋み」は「叫び」となる.次第に「ホラー」という骨組みが,その剥がれ落ちる錆層とともに,黒沢清によるさまざまな作品に出現する〈廃墟〉を想起しはじめる.「商品が商品であることを貫きながらどこまで混乱と錯綜を勝ちとれるかという前代未聞の実験,或いは,ただ単に商品でしかないものが,ふんぞり返った芸術に対して企てた無謀なる叛乱」(「どこまでも観客に向けて作られた映画」『映像のカリスマ』,三〇七頁).しかし,そのことで『回路』はおよそわれわれが見たことのない奇形的なかたちをともないながら──それは商業的に「良質」な作品からはかけ離れてしまうということを意味する──同時に「死」をめぐる「ホラー」という「ジャンル」のある本質的な領域へと接近する.「脱ジャンルではじまってジャンルの本質にたどりついてしまう思考法」(柳下毅一郎,黒沢清インタヴュー『映画秘宝』二一号,七五頁).その本質的な領域は,「映画」そのものの解体現場にあまりにも近い.「軋み」を上げる「ジャンル」の桎梏が〈廃墟〉と見分けがつかなくなるにつれ,腐蝕した鉄筋のような骨組みとなり果てたそれぞれの「ジャンル」は互いに似通いはじめ,ときに「ノンジャンル」とも交錯しながら,「映画の解体現場」を中心に据えた円環を構成することになる(〇〇年代以降は『ドッペルゲンガー』[二〇〇三]で全面化されることにもなるジャンルの並立性,一本の映画におけるジャンルの変換ないし重層化の試みが浮上してくることになる.「ジャンルとしての約束事は,まるで骸骨のように形骸化し,ひとつのジャンルと隣接した別のジャンルが同一平面上に並立する」[梅本洋一「『LOFT』黒沢清」,二〇〇五年三月.http://www.nobodymag.com/journal/archives/2005/0303_1825.php ]).「本文のない映画」として『復讐 消えない傷痕』を挙げ,鈴木一誌が「ジャンルの表層を横断するのではなく,ジャンルの中心部から他の中心部へと貫通する永遠の円環運動がある」[鈴木一誌「本文のない映画」『InterCommunication』三七号,六三頁])とコメントしているのもまたおそらくはこのような事態を指してのものであろう.「本文のない映画」とは,〈幽霊〉化した「映画」そのものではないか.黒沢は『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の舞台となった「廃墟」をめぐって,「死」と「映画」と「永遠」について書いている.「軽やかに歌い,踊る若者たち,というような設定が脚本のあちこちにあり,私をそれをコミカルに撮ったつもりだったのだが,陽気な若者たちの背後に決まって巨大な廃墟がそそり立っている,シーンのいたるところがそんな風にできてしまったのである.(…)全てはこの場所のせいである.この場所に偶然行き着いてしまったおかげで,作品の運命は大きく変化してしまった.(…)今思えば,私も撮影中にこの場所の魔力に取り憑かれ,どんどん見境をなくしていったようで,いつの間にかより凄惨な場所はないか,より陰惨な場所はないかと廃墟の中を駆け回っていた.楽しいシーンの舞台としてである.が,いつの間にか私が探し求めていたのは,まさしく死のイメージであったと言えるだろうか.(…)廃墟の中で,時間は止まっている.ゆえに,そこはあらゆる流行や風俗と無縁の場所である.替わりに,死が,永遠と不動のしるしとしてヌッと頭をもたげてくる.そのようなものを獲得した時,作品は知らず知らずゆっくりと歴史の中に組み込まれる.『ドレミファ娘』は’85年映画だが,その後私のフィルモグラフィーの中でも,最も頻繁にあちこちで上映される作品となった.(…)華やかな生は一瞬だが,死は長い時間を悠々と生きる.私は自分が撮ったささやかな一本の映画から,はからずもそのことを学んだ」(「ドレミファ娘の血は騒ぐ・ロケ地再訪」『映画はおそろしい』,二七四頁.強調引用者).「日常性」の導入は「映画」を延命させない.緩慢な死を与えることも金輪際ありえない.〈幻影〉化による「ディゾルヴ」の結果,「映画の原理」=〈幻影〉が引き裂かれることで「映画」そのものは〈幽霊〉となり,〈死体〉化しながら「別の生」=「死後の生」を生き延びる.「映画」によるこの上なく不気味な「勝利」,人々を動揺させ唖然たらしめるに充分な「正しさ」だ.「ジャンル」主義的な絶対性を取り払うことが,「映画の死」という固有の(非)「ジャンル」性に帰着することになる.彼は『地獄の警備員』の劇場用パンフレットのための短文ですでにこう書いていたのだった.「現実の死とは,おそらく何の誇張も省略もない無愛想な出来事に違いない.しかし,映画はまさにそれに知恵と勇気を総動員してかかる.そうすることによって映画の技術は磨かれてきたのだし,言い換えれば,映画はスクリーン上で人を殺すことによって,一年,また一年と今日まで生き延びることができた.だから,もし映画の中で誰ひとり死ぬ者がいなくなったとしたら,その時こそ,とうとう映画自身の死ぬ番なのである」(「映画が死ぬ時」『映画はおそろしい』,六九頁.強調引用者).かくて「映画」=〈廃墟〉が作品に据え置かれ,他の作品群のそれぞれの輪郭へと不均質に滲み込み,識別不可能性のなかで互いが互いを錯乱的に想起し合う──「非時系列的な時間」(『シネマ2*時間イメージ』,一七一頁)を解放する死の「生成変化」の火蓋が切られることになる.これが「解」だ.無論,だからと言ってそれで終わりなのではない.「映画の原理」と「世界の原理」が,その鬩ぎ合いが消え去るわけではない.「ディゾルヴ」という「解(決)」の収束によって,「両者の間の力関係」が消滅し「覇権闘争」が終息することなどありえない.「差異だけが相互に類似する」(ジル・ドゥルーズ『意味の論理学(下)』小泉義之訳,河出文庫,二〇〇七年,一四七頁)という「類似性」の地位を貶める定式が「シミュラクル[見せかけ]の世界を定め,世界そのものを幻影として定立する」(一四八頁)のだとドゥルーズが書くように,「類似性」をともなう「一つの解」はつねに「二つの問題」の暫定的な外部効果にすぎず,「両者の間」の「差異」(「ずれ」)は維持しつづけられる.「現実」は〈幻影〉のモデルではない.オリジナルなのではない.〈幻影〉も「現実」もシミュラクルである,という形式において,「現実」は中性化され,差異化され,〈幻影〉として引き裂かれる.「同一性」からの水平的な「逃走」と,その必然的な頓挫による「引き裂き」の反復.無論「現実」に対する小手先の差異化が見窄らしく失敗することで,その裂け目の襞にのみ目が留まることがあるかもしれない.安直な異化効果でしかない演出が見事に画面を白けさせ,身も蓋もない空疎な物質性をただ曝すばかりのあの事態が.だが,たとえ「ディゾルヴ」による「もう一つの現実」があたかも両者の「類似性」を基盤とした相対的な差異の実感を露わにするような場面が見られたとしても,それはあくまで「現実」(との/による「類似」)の安易な「リアリティ」こそを「否認」する運動の過程にあるものにほかならず,引き裂かれつづける〈幻影〉と裂け目から横溢しつつある〈地獄〉の二つの水準として,それらがすでに遡及的に構成し直されているということを見逃してはならない.〈幻影〉と〈地獄〉が重ね合わされた感覚的強度のもとに広がる光景は,よくある「現実」の「リアリティ」など一顧だにしない.それは「ずれ」の結果であるにすぎない.不確実な諸条件に要請された「現実」への愛想笑いにすぎない.「覇権闘争」は終わらない.「映画の原理」たる〈幻影〉は引き裂かれることにこそ存するのだから,引き裂かれつづけることによってこそ生き延びる,〈地獄〉とともに.こうして,ありとあらゆる場所に「此岸」と「彼岸」の境界線=逃走線が引かれることによって(『回路』に登場する儀式的な赤いテープのように),無機的な物質性の微細な襞において何かがすでに起きているという重苦しい気配ばかりが作品の画面を鈍く震わせることになる.空疎な物質性が,気づかぬうちに「不気味なもの」へと変貌している.「霊は物体にすぎない」という直観にもとづく幽霊描写の即物的な演出において,目を向けた先に遍在する恐るべき幽霊を棒であっさりと殴ることができてしまう場面には痙攣的な笑いがある.「幽霊」を単なる内在的な事物とする楽観性(触れられることの方が,触れられもしないことよりも「救い」がある).ここでは逆に唯物論的な操作が〈幻影〉=ヴェールとなる.しかるに,それは事物たる幽霊がどうしようもなく「遍在する」という耐えがたい「現実」の境位に引き摺り落とされつつある宙吊りの状態でもあるだろう.〈幻影〉の「引き裂き」のうちにある幽霊の未決定性が,ここでは恐怖表現の中心となるのだ.〈地獄〉から「生え出」た「それ」は,いわば引き裂かれた物質性が遍在性と「ディゾルヴ」することの致死的な切迫として現前する.「ディゾルヴ」という「解」の決定が,未決定性として「溶解する dissolve」ことの提示としかなりえないのである.このとき,「それ」は「幽霊」から「死体」それ自体の禍々しさへと限りなく近づくことになる.高橋洋は,知り合いの脚本家が旅館で遭遇した幽霊についてこう書いている.「おそらく脚本家がちゃぶ台の向こうに見て,瞬時に識別したものとは,人間が認識し得る範囲で最も近似的なものをあげれば,死体であったと思う.幽霊実見談を読んでゆくとやはりそこに突き当たる.きわめて月並みな結論に思えるかも知れないが,しかし立っている死体など見たことがある人はいないのだ.それがあり得ないことである故に彼の記憶は飛んだ.それはおよそ耐えられるものではなかった」(「死ね死ねシネマ」『映画の魔』,二四頁.強調引用者.ちなみに高橋は,ハリウッドはすでに「幽霊」と「死体」の近似的な関係に気付いており,さらにはCG技術による「死体」への漸近が畢竟精巧な「ゾンビ」を作り上げることにしかならないという技術的限界すら克服しているかもしれない,などと深刻そうに述べてからこう締め括っている.「だが,それは封印された.見た者は瞬時に記憶が飛ぶから.恐怖映画が究極に目指すものとは誰も見たくない光景なのだろうか.そうだとすれば,それは映画の死を目指していることになる」[二五頁.強調引用者].「死体」に限りなく近い「幽霊」は,「映画」を死に至らしめる).かくして「人間」は敗北する,かに見える.ある意味ではそうだ.しかし幽霊をマテリアルな事実性へと脱臼させ〈幻影〉化する絶え間のないプロセスと同時に進行するのは,幽霊が物質であるゆえに,物質たる人間が〈幽霊〉化するプロセスにほかならない(無いはずのものが在るということは,在るはずのものが無いことを含意する.「それ」は必ず「見る者の存在に関わる」[二二頁.強調引用者].『降霊』ではその結果として,主人公はみずからの「ドッペルゲンガー」[自己の二重化=「分身」化]に直面するが,彼はいささかも取り乱すことなく灯油をかけて「それ」を燃やす,すると煙が立ち昇る.直後に神主を家に呼んだ主人公は,祈祷が完了し帰途に就こうと田園地帯を歩きだす拝み屋にこう訊ねる.「先生」「はい」「地獄はありますか」「は」「地獄は存在するんですか」「あると思えばありますし,ないと思えばありません」「先生はどっちです」「分かりません」.遣り取りの背後において,庭からはいまだ黒煙が立ちつづけている.神主による相対化の言説が,〈地獄〉によって引き裂かれる).〈幻影〉を介し〈幽霊〉として生きていく〈ニンゲン〉の肯定という二重に倒錯した楽観主義が成立することになる.ところで,そもそも「映画」とは,形態なき「幽霊」にかたちを与えることではなかったか.「映画における物や行為は,そこに見えていない何かを意味するために,描かれざるを得ない.つまりそれは,徹底してヒステリー的な表現,すなわち隠喩としての表現であるほかはない」(「黒沢清──ホラーの自己生成」,六二頁).「映画」に登場する「人間」は,「幽霊」=「隠喩」であるとともにどこまでいっても演技する物質であるゆえに,「美術館」と同質の二律背反を,つまりは「引き裂き」を生きる「運命」においてしか存在しない.「隠喩」は「形容詞」とも言われる.黒沢清による「運命」=「抵抗」の実践は,「形容詞」としての「幽霊」を排除することで「人間」を〈幽霊〉化する.「幽霊」の〈幽霊〉──それは〈死体〉への限りない漸近でもある.無いはずのものを在らしめる「映画」が,在るはずのものを無からしめることをその誕生の瞬間から含意してきたのだとすれば,〈幽霊〉として〈死体〉化しつづけることで生きる「映画」こそが,「見る者の存在に関わる」ものとしてその含意を徹底し解き放つだろう.こうした構造は,怪奇映画,アクション映画,コメディ映画,家族映画,若者映画,そして恋愛映画などにおいても同様であり,しかるがゆえに『大いなる幻影』もまた黒沢清のフィルモグラフィにおける例外とはしない(そもそも男がフィルム上から消滅するときに,そのイメージの没し去る先にあの〈大地〉以外の何があるというのか).このとき〈地獄〉は一見後退するかに思われもするが,その実悲観主義的な「現実」として,「滅亡すると確信された世界」として〈幻影〉の向こう側(「外」)に,もしくは〈廃墟〉の向こう側にひっそりと定位しつつ,コンクリートの床にまで溢れ一面に黒々と湛えられた水,光を篩にかけながら音もなく翻るビニールのカーテン,壁に差す樹々の揺らめく影,誘惑する「赤」と悲観する「黄」の色彩などによる光学的な浸入の契機を絶えず探りながら不気味に蠢いている.ゴミ袋や段ボールの空き箱の山に作中人物が突っ込んでいく,この作品毎にジャンルを貫通して飽きもせず律儀に繰り返される〈幻影〉は,表面上は空虚なる「現実」との格闘の戯画であるが,同時にその寸劇じみた「お約束」に対し,作中人物はうんざりしながらもはやこのような「演出」にはいかなる反応もせずに遣り過ごすべしと決意しているがごとく──まさにそれが「お約束」なのだが──に見える.かくて滑稽でつまらぬ現実にすぎない〈幻影〉(楽観主義)の「仕掛け」に彼らが巻き込まれることで,悲観主義的な「現実」からの喜劇的な「ずれ」が不穏な痙攣をともないながら生じることになる.同様に,登場するあらゆる夫婦は仲が良いにもかかわらず壊れて見えるのではなく,壊れているのに,もはや壊れているからこそ仲が良く見えるのである.ペシミズムが配され,それへの〈幻影〉化されたオプティミズムが重ねられるという構造に変わりはなく,揺動しながら結合の度合いを変える両者の重なりがモアレ・パターンの多様な図像を生むかのように,そのパラメータの配分によって〈幻影〉の痙攣する喜劇や,〈幻影〉の破れから噴出する〈地獄〉の悲劇が展開されるのだ.少なくとも黒沢清の考える映画とは〈幻影〉の散布装置であり,同時に〈地獄〉の召喚装置である.ゆえに「全ての映画はつまりホラー映画なのだ」(「ホラー映画とは何か」『映画はおそろしい』,二六頁)とも言いうる.それは「われらの狂気」であるとともに,その狂気を「生き延びる道」であるだろう.
「現実」をつねにずらすことで差異化しつづけながら,それを笑い飛ばすことの創造性を肯定すること.これを「イロニー」に対置された「ユーモア(ヒューモア)」と言ってもいい(柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』,筑摩書房,一九九三年,一一八頁以下参照).あるいは「父の名」ではなく,ザッヘル=マゾッホの名とともに.「幻影と未決定という手段を彼ほど活用した作家は一人としていない.愛から『性的素質を奪う』と同時に,人類の歴史の総体を性的なものにする非常に特殊なやり方が彼には備わっている」(ジル・ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳,晶文社,一九九八年,一七頁.強調引用者).事物の状態へみずからを貶め「大地」へと落とし込む挙措を通じ,「宙吊り」にされた「幻影」のなかで天上の永遠なるものの「反復」を内在的に産出しつづける「マゾヒズム的生」の冷淡なる美学的実践.「幻影こそが根元的なのだと言う性格」(一三四頁.強調引用者).「現実はわれわれが見たごとく,否定作用を帯びたものではなく,現実を幻影へと転化せしめる一種の否認作用を帯びているのだ.宙づりの状態もまた理念に対して同じ機能を持っていて,理念を幻影に置き換える.待つことそれ自体が単位としての理念=現実であり,幻影の形態もしくはその時間性なのである」(九三頁.強調引用者).「だから世界を否定したり破壊することが重要なのではないし,まして理念化することが重要なのでもない.世界を否認し,否認の仕草によって宙づりにして,幻影の中に宙づりにされた理念的なるものに向かって自分を拡げることが問題なのだ.(…)そうした操作は,マゾヒスムの法学的精神にぴたりと一致している.その過程が本質的にフェティシスムへと通じるものである点は,驚くにはあたらない」(四三頁.強調引用者).「マゾッホ的ユーモアとは次のようなものである.すなわち,かりに違反するなら当然の帰結としての懲罰をこうむるだろうという危険によって欲望の実現を禁じるその法が,いまや懲罰を加え,その帰結として欲望の充足を命ずる法となってしまっている」(一一二頁).法にどこまでも従順を装うことによって法を自壊にまで至らしめる「ユーモア」の凄絶なる力能.楽観主義がみずからを引き裂かせることにおいて,悲観主義をみずからの存立の手段にまで至らしめるように.拷問者の女性との「契約」にもとづく関係性において脱子宮的・脱エディプス的に遂行される「処女懐胎」,この性的快楽の否認による「新たなる無性的人間」(四四頁.強調引用者)を組成する「単性生殖」(第二の生誕=「復活」)を通じて,法=象徴秩序から父を放逐(「排除」)し母たる「理念」に法を従属せしめる魔術的な倒錯的構造,掌握される「調教の公理」(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー(上)』宇野邦一他訳,河出文庫,二〇一〇年,三一九頁)──『大いなる幻影』の二人の「去勢」は,新たに「否認」されなくてはならない.マゾヒズムにおいてこそ,闘争は「繁殖」を更新することに存する「繁殖の藝術」となる.「否定」ではなく.註9参照.
*9 佐々木中は「リトルネロ」について「このプロセス全体のあらゆる局面が藝術と呼びうるのであり,それは必ず受胎の,繁殖の
